【Vol.24】(第6回)苦渋の選択

 現代社会は学問(科学)を宗教的な基盤としてなりたっています。医学による人間管理はその主要な部門をなします。わたしたちは通常、医学的な医療によって管理されながら生まれ、定期的な検診を通じて監視されながら一生をすごし、医学的な医療によって管理されながら死にます。これは慣習というようななまやさしいものではありません。

 もし末期ガンの患者を医師にみせずに家庭で最後まであたたかく看取ったとしたら、その家族は警察に逮捕される可能性があります。同様に、もし家族だけで出産して赤ちゃんが亡くなったとしたら、その親も逮捕される可能性があります。医学的な管理のもとで生まれ、医学的な管理のもとで死ぬのが、この社会のおきてなのです。

 病院に身をゆだねさえすれば安心です。—-ただしこのばあいの「安心」というのは、自分で責任をとらなくていいという意味での安心にすぎません。医学は未熟すぎます。病院に身をゆだねたからといって、たいていは病気を治してもらえるわけではないし、安産をさせてもらえるわけでもありません。それどころか、病院では患者や産婦はさまざまな苦痛や危険に遭遇させられるでしょう。医学そのものがあまりにも物質的かつ短絡的なので、それにもとづいた医療行為がどうしても強引で暴力的なものになってしまいがちだからです。

 いずれ病院も変わってゆくでしょうが、それを待っているわけにもゆきません。現状では、暴力的な医療から身をまもるためには、できるだけ病院に近づかないようにするしかありません。では、病院出産全盛のこの時代にあって、病院で産む以外にどのような選択がのこされているのでしょうか。

 さいわいにして、助産師のみの介助による出産が現在でも公認されています。助産院に産婦が入院するか、もしくは産婦の自宅に助産師が出張するかたちで、助産師のみの介助による出産がおこなわれます。どちらにしても、病院にくらべてずっとなごやかな雰囲気のなかで、くつろぎながら出産することができます。このくつろぎこそ、自然なながれで出産するためのキーポイントにほかなりません。

 助産院や自宅での出産には安全性の面で不安を感じるひとがすくなくありません。医師たちもそうです。しかしそれは杞憂です。むしろ助産院や自宅のほうが病院よりも安全性が高いのです。自然の生理にそった出産ができるのでトラブルの発生じたいが病院よりもすくなくなるからです。スタッフや設備の充実した病院がいちばん安全だというのは宗教的な迷信にすぎません。してみれば、よほどのリスクをかかえた産婦でないかぎり、だれもが助産師のみの介助を優先的に選択するべきだという道理になりそうです。

 ところが、この社会の現実はそう甘くはないのです。助産師のほとんどは病院に勤務しています。周辺に助産院がひとつもない地域もめずらしくありません。助産院があっても出産をあつかうとはかぎりません。自宅出産をあつかう出張助産師となると、近隣にひとりもいないのがふつうです。

 運よく助産師がみつかったとしても、それで万事OKというわけではありません。助産師も医療者です。大病院を中核とする地域の医療体制のなかに、すべての助産師が組み込まれています。病院医療の傘下に入ることなく出産業務をおこなうことは助産師には許されていません。病院医療の傘下に入るということは、産科のしきたりに同意することを意味します。その結果、いまの助産師は自然の生理の発現をみきわめることもできなくなっているのです。妊産婦がすこしでも「標準」の範囲から逸脱する徴候をしめすと、助産師はすぐにその妊産婦を病院送りにしてしまいます。逆子の分娩もあつかいません。さまざまな数値もきびしく査定されます。(標準や偏差にこだわるのはこの科学教社会の悪弊のひとつです)。これではなんのためにわざわざ助産院や自宅での出産を選んだのかわからなくなってしまいます。とくに、分娩中にあわただしく病院に搬送されるくらいなら、はじめから病院に入院していたほうがマシだったことになります。

 こうしたことをふまえて、しぶしぶ病院を選ぶか、それとも半信半疑で助産院か自宅を選ぶか。—-こんにち、安心なお産をねがう妊産婦はこのような困難な、苦渋の選択をせまられているのです。(産院と助産院を合体させた院内助産院のような施設を普及させることが、この閉塞した現況を打開する当面の具体策となるでしょう。)

さかのまこと

さかのまこと氏
自然哲学者。
慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。