この民主主義(?)社会にあって、いまだに権威というものが幅をきかせている領域があります。学問(科学)の領域です。
学問と権威を切りはなすことはできません。というのも、学問は客観的に評価することができないからです。
科学は「実証」を標榜しますが、その「実証」が正しいという保証はどこにもありません。どんな実験や論証も個々人の主観によって評価されるほかないのです。そこで、学説がひろく認められるためには、なんらかのかたちで権威づけられることが必要となります。権威づけられるために必要なのは、学説の正当性ではなく、主として学界をふくむ社会の諸要件を満たすことです。(それゆえ学問はけっして厳正でも中立でもありえません)。
こうして、学問そのものがまやかしの権威によって成立することになるのです。
ノーベル科学賞は権威ある賞ですが、その受賞者をきめるのはだれでしょうか?
無知な人間どもです。ノーベル賞受賞者が尊敬されるような社会は未熟な社会です。学問は本質的に権威主義なので、学問を基盤とするかぎり、社会もまた権威主義から脱却することができません。学問は、人間から内発的な判断力をうばいます。ひとびとは、学問を通じて、権威への隷従をまなびつづけているのです。
学問の伝道教会である学校では、いまだに画一的な一斉授業がおこなわれています。生徒たちは整然と席につかせられ、教壇の教師から一方的に権威ある知識をさずけられます。権威ある知識といっても、読み書き計算以外はほとんどが不必要であるばかりか、つきつめれば真偽不明の仮説ばかりです。この一斉授業は、教えられるがわの都合よりも教えるがわの都合のほうを優先するものです。ほんらい学校の主役は生徒たちであり、なによりも生徒たちの主体性が尊重されなければならないはずです。
産科学を信奉する病院では、手術に準じた画一的な分娩方式がいまだにおこなわれています。はだかの産婦を分娩台のうえにあおむけにして、さまざまな医療処置をほどこすのです。この分娩方式は、産婦と赤ちゃんの都合よりも産ませる医療者の都合のほうを優先するものです。ほんらい出産の主役は母子であり、なによりも母子の主体性が尊重されなければならないはずです。
分娩台であおむけになって下半身をさらけだすかたちは、医学という権威への隷従を象徴しています。しかもこれは出産にとってもっとも不利なかたちです。この、ひっくりかえされたカエルのようなかっこうになることだけは、なんとしても避けたいものです。それなら、どのようなかたちが出産にふさわしいのでしょうか。
基本的にいえば、陸上で重力を利用するかたちか、水中で浮力と水圧を利用するかたちが合理的です。陸上がいいか水中がいいかは、いちがいにはいえません。拙著『あなたにもできる自然出産』では水中出産についてくわしく述べましたが、それはまだ一般的でなかった水中出産を有力な選択肢として強調するためでした。じっさいにはどちらにも一長一短あるので、どちらを選んだらよいかはケースバイケースです。理づめで考えるよりも、直観や赤ちゃん自身の要望にしたがうのがよいでしょう。それが主体性というものです。
わが家の自宅出産では、畳のうえとお風呂の両方の準備をしておきます。第一子のときは、お風呂の用意ができたとたんに、産婦はお風呂にとびこんでしまいました。痛がりやなので痛みに耐えられなかったのです。浴槽からあがろうとすると激しい痛みが襲うので、けっきょくそのまま一度も浴槽をでることなく娩出にいたりました。
第二子のときは、あらかじめおなかの赤ちゃんにお伺いをたてました。(この子のばあい、身体的な応答は肯定ならノック一回、否定なら無反応です。)
「お風呂で生まれますか?」
「・・・・・・」
「畳のうえで生まれたいですか?」
「ポコ」
というわけで、どうやら本人は陸上で生まれるつもりのようでした。また、臨月になっても逆子でしたが、赤ちゃん自身はそのほうがいいと考えているようでした。陣痛が本格的に始まったところで、わたしはお風呂の用意をしました。部屋にもどると、柱にもたれた母体から赤ちゃんがドサッという感じで生れ落ちたところでした。あっという間のことでした。
こうして、第一子のときはお風呂が産婦の痛みをやわらげてくれたし、第二子のときは部屋でのフリースタイル出産が逆子をスピーディーに娩出してくれました。結果的に、水・陸両様の長所がそれぞれに活かされた出産となったわけです。
さかのまこと
さかのまこと氏 自然哲学者。 慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。 |