【Vol.23】(第5回)病院で産むということ

現代社会は学問(科学)を基礎としてなりたっています。好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちは学問によって人生を拘束されています。

ところが、その学問というものが、じつはとんでもないシロモノなのです。学問には確実なものがなにもありません。現代の学問は、唯物論という誤った思想のうえに築かれた砂上の楼閣です。それは当座をとりつくろう仮説の体系であって、真実とはなんの関係もありません。学問は無知な人間のつくりだした蜃気楼にすぎないのです。
そんな学問が過度の信頼を得ているのは、それが史上最大の世界的宗教として信奉されているからです。日本でも学問を国教と定めているので、子どもたちは学校でこの新興宗教の教義を強制的に教え込まれ、敬虔な信者になるよう徹底的に教育されます。そのかいあって敬虔な信者となったひとびとは、たとえば病気になれば医学の直営施設たる病院に身をゆだねます。妊娠しても、やはり医学的な手順に身をまかせて病院で出産します。

こうして病院に身をゆだねることは、信者としては模範的でしょうが、実際問題として賢明とはいえません。医学的な医療が最良とはかぎらないからです。たとえば糖尿病や痛風になって病院へ行っても、けっして治してはくれません。血糖値や尿酸値を生涯にわたってコントロールされるだけです。いっぽう、医学の常識に反して、くだものを中心とする食事療法を自分で実践すれば、それだけで病気じたいがすみやかに治癒してしまうでしょう。ほかにも効果的な療法はいくらでもあります。治す気があるのなら、病院へは行かないほうが得策です。

もちろん、病院にも利点はあります。利点は主としてその技術的な側面にあります。たとえば緊急に外科的な措置を要するようなばあい、病院医療の技術がおおいに役立ちます。病院は、必要なときに利用するべき施設であって、必要もないのにお得意様になってあげるべき施設ではないのです。これは産科でも同様です。

日本では、大戦後に占領軍の指導もあって病院での出産が急速に一般化しました。現状では、ほとんどの産婦が産科のある病院や医院で出産します。それがあたりまえになっているからです。しかし、あたりまえになっているのは、それが最良だからというわけではありません。

病院の産科は、系統上、外科に属します。もともと外科的手法を身上とするのです。分娩台が手術台に酷似しているのも、そこに起因するのであって、出産にふさわしいからではありません。しかも病院では、産科学にもとづいて、つねに最悪の事態を予測し、先手先手と対策を講じてゆきます。ところが産科学じたいが幻想の体系にすぎないので、それにもとづく対策のほとんどが不適切なものとなります。陣痛誘発・促進、会陰切開、カンシ・吸引分娩、帝王切開などみなそうです。こうした医療介入そのものが重大なトラブルであり、それらがまたさらなるトラブルを誘発します。医療が医療の必要性を生みだしているのです。

最近は産科医不足のため産科をもつ病院が減ってしまい、産ませてくれる病院を求めてさまよう?出産難民?が問題となっています。この異常な事態は、もとをただせば医学・病院医療にたいする過度の信頼に起因するものです。病院に身をゆだねていれば安全に出産させてもらえるという思い込みは、事実に反するものです。事実は、病院というところはさまざまなトラブルがもっともひんぱんに発生する場所なのです。そのことをわきまえない敬虔な信者たちは、いざ大きな医療事故に遭遇すると、一転して担当した医療者を責め立てます。医師たちは、裁判ざたになるのがいやで産科を敬遠します。小規模な病院では産科医の不足が勤務態勢をいっそう苛酷にし、やがて産科医は一人もいなくなってしまうというわけです。

今年から実施されるようになった「無過失補償制度」(出産時の事故で赤ちゃんが脳性マヒになったばあいに医師らの過失の有無にかかわりなく補償金が親に支払われる制度)は、そのような異常事態への打開策のひとつです。しかしもちろん、これだけでは異常事態の根本的な解決にはなりません。より根本的な原因—-医学・病院医療への過度の信頼という原因がそのままになっているからです。

病院で子どもを産もうとすることが通常どんなに場ちがいな行為であるか、そろそろみんなが認識するべき時期にきているのではないでしょうか。

さかのまこと

さかのまこと氏
自然哲学者。
慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。