【Vol.26】(第8回)自然出産とはなにか

 「自然出産」にも、ピンからキリまであります。

 産科医にしてみれば、下から生ませられれば立派な「自然出産」でしょう。助産所では、所内で生ませられれば自然な出産ができたことになるでしょう。もっと原初的な出産をのぞむひとにとっては、たとえば分娩監視装置(胎児の心拍と子宮の収縮を自動的に記録する機器)を装着されるだけでも、もう自然ではないと感じてしまうかもしれません。

 ひとにはそれぞれの感性や信念があるので、どのような出産を自然と感じるか、ひとそれぞれであって当然です。けれども、「自然」ということばをつかう以上、心身にとってできるだけ自然というのでなければ意味がありません。まず、身体にとって自然であるためには、身体の本能的なはたらきがさまたげられないようでなければなりません。出産にあっては、出産のための生理ができるだけさまたげられないことが、自然な出産の要件といってよいでしょう。

 この点からすれば、病院での出産のほとんどはとても「自然出産」とよびうるものではありません。陣痛の誘発・促進、麻酔の投与、会陰切開などは身体生理への明白な妨害です。分娩監視装置の装着や点滴のための血管確保や導尿カテーテルの挿入なども、身体の自由をうばうことで、やはり自然の生理にさからうことになるでしょう。

 心理的な面でも、病院のさまざまな行為には違和感がともないがちです。剃毛や内診といったちょっとしたことでさえ、産婦に羞恥心や緊張感をよびおこします。その羞恥心や緊張感は、心身相関的に身体生理にブレーキをかけてしまいます。

 それなら、いっそのこと、いっさいの医療的なはからいをなくしてしまったらどうなのでしょう。じっさい、そのような原初的な出産をのぞむひともいるし、それに果敢に挑戦するひともいます。けれども、おおかたのひとにとってそのような出産が自然だとはかならずしもいえません。というのも、医療による管理と保護に慣れきってしまっている現代人には、医療による干渉を受けていないと安心して出産できない傾向があるからです。産婦が強い不安をもっていれば、その身体も硬直して本能的な能力をじゅうぶんに発揮することもできなくなってしまいます。

 ただし、この、医療による干渉を受けていなければ不安だという心理は、多分に迷信にもとづいています。出産への医療介入の大半は不要な干渉です。それらは身体生理の自然なはたらきをさまたげ、身体に余計な負担を強いるだけのものです。そのため、出産に干渉すればするほど、かえって出産は危険なものとなってしまうのです。こうした道理をよくわきまえているひとは、たとえば大学病院で出産するなどとても怖いことだと思うはずです。それが正常な感性というものです。

 とはいえ、自宅で分娩がはじまってしまったら(赤ちゃんが生まれでてしまっても)、すぐに救急車を呼ぶきまりになっているご時世です。たいていのひとにとって、医療に身をゆだねてこそ安心という感性は、ほとんど第二の天性となってしまっています。そうしてみると、自然な出産をするためには、身体生理へのやさしさと心理的な安心感との、かねあいが必要ということになりそうです。

 ところで、自然な出産というときにも、忘れてならないことがあります。赤ちゃんのことです。出産が自然であるためには、なによりも赤ちゃんの心身にとって自然でなければなりません。しかし、赤ちゃんの心身を本気で気づかう医療者がいったいどれだけいるでしょうか。

 赤ちゃんは、出産時にさまざまな苦痛を経験します。その苦痛のなかには、トラウマとなって人生に暗い影をおとすものもすくなくありません。そのおおくが、医療者による無神経な行為に起因します。薬物によって強引に押しだすこと、むりやり引っぱりだすこと、いきなり強烈なライトを浴びせること、生きたヘソの緒を切断すること、母体からすぐに引き離すこと……こうした仕打ちが赤ちゃんに強いショックをあたえるのです。

 赤ちゃんこそ出産のほんとうの主役です。その赤ちゃんは、五感と感情と霊感のかたまりのような、傷つきやすい繊細な感性の持ち主なのです。わたしたちは赤ちゃんをそのような繊細な感性の持ち主として迎えなければなりません。そうした配慮に欠ける出産を「自然出産」とよぶことは困難でしょう。

さかのまこと

さかのまこと氏
自然哲学者。
慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。