息子が生まれてから、「知育玩具」と呼ばれているおもちゃをいろいろと探してしまいます。「遊びを通して楽しく学ぶ」ために、いろんな説明書きで商品が紹介されています。どれを選べばいいのだろうか。と、とても悩んでしまうのです。
そんな頭を悩ませて購入をした「知育玩具」ですが、いざ息子の前に出すと、見向きもされなかったり、思い通りに使ってくれないことがしばしばで、がっかりしてしまうことがあります。
「このおもちゃは、ここのお魚さんをくるくると回すのよ」なんて、私がやってみたところで、息子は知らん顔してぐちゃぐちゃに遊びます。「結構高かったのに…」と思ってもそれは親の都合なんですよね。
では、その「知育玩具」を思い通りに使わないと、遊びを通して楽しく学んでいないかというと、そうではありません。引き出しをつまんで開け、袋をバリバリさせ、あらゆる物を噛み、“ふむふむ”とじっと考え込み、気になったところまで高速ハイハイで移動をして、きゃっきゃと笑い、私に話しかけ、毎日彼は新しい発見をし、汗びっしょりです。そして、着実に出来ることが増えていき、驚きの連続。
この「らくなちゅらる通信」の“きのくに子どもの村通信”の連載の中に、「何事も(子どもが)自分で発見したから知っている、というのでなければならない。」という一節がありました。ついつい、親の勝手な都合で、教え込むということをしがちになるのですが、「間接的に子どもが学ぶことの援助をする」ということが、親にも必要なのだろうと思います。
詰め込むでも、放任をするでもなく、息子との対話を通して、生きる上での経験を積み上げる手助けのできる親になってゆきたいと、新米の母は思いました。