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農業ルネッサンス元年

川平 俊男 (かびら としお)

1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

【Vol.61】ツルさんが訪ねた宮古上布の歴史

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 1945年9月、防空壕を出た。「助かった。これで砲弾におびえなくてすむ」。

 第二次世界大戦末期、人口6万人余の小島の宮古島には3万の日本軍がいた。特攻隊基地もあった。朝鮮から強制連行された多くの女性達もいたという。沖縄のように地上戦こそなかったが、海と空から砲弾は雨霰と降ってきた。

 壕を出たツルさんは上布織りの人たちを訪ね歩いた。ツルさんは織りを見ながら考えていた。「私は宮古上布の道を進もう」。それから60年余、宮古上布一筋に生きてきた。宮古上布は草麻(宮古語ではブー)を原料とする麻織物だ。16世紀末、洲鎌の与人の職にあった真栄が沖縄からの帰途、遭難し中国に漂着した。その後、琉球王府の進貢船に便乗することになったが、暴風に遭う。真栄の勇敢なる行動で進貢船は転覆の危機を脱した。その功績により真栄は頭職に任ぜられ、下地親雲真栄となる。真栄の妻、稲石は「綾錆布」を織って、王府へ献上した。その織布は皆を驚嘆させた。それが宮古上布の始まりと言われている。稲石は宮古上布の創始者として崇められている。ツルさんは稲石の末裔だ。壕を出た後、誰に言われた事もなく、宮古上布織りを訪ね歩き、研究を重ねた事は創始者稲石の魂の導きだったのかとツルさんは語っている。ツルさんの母も、祖母も宮古上布織りとは無関係だった。つまり、稲石の技術は稲石の子孫に引き継がれた訳ではなかった。

 首里王府の悪名高い、人頭税は宮古・八重山の農民を農奴にした。この人頭税制は宮古・八重山の農業や文化の自主的自立発展を阻害した。数々の悲劇を生み出した。1609年の薩摩による琉球侵略以後は税の取り立ては苛烈をきわめた。宮古・八重山の農民は島の役人・首里王府・薩摩の三重支配に苦しめられた。このような歴史的背景があるため。私たちは“オキナワ”と一括りにされることには心理的抵抗がある。

 宮古上布は三重支配に利用された。女性たちは村番所裏の「ブーンミャー」に集められ、厳重な監視下で首里王府と薩摩への上納品として宮古上布づくりを強制された。人頭税は現代の私たちには想像しにくい。日本にも「五公五民」とか「六公四民」とかの時代があったが、人頭税は何と「九公一民」であり、村の中で上納できない人が出るとその分まで負担しなければならない。つまり、収穫物の9割以上を収奪された。宮古上布づくりはもっとひどかった。女性たちは上布に織りむらなどが見つかると陰惨な刑罰を受けた。女性たちの悲劇は強制労働だけではなかった。監視の役人たちはやりたい放題だった。夫のいる女性に性の相手をさせたり、乳呑み子に授乳の機会を与えなかったりした。

 この人頭税による収奪と悲劇は1903年(明治36年)まで続いた。製糖技師として沖縄県農事試験場から宮古へ赴任してきた城閣正安と新潟県から真珠養殖事業のために来島していた中村十作が人頭税廃止運動に火を付けた。宮古の農民たちが決起し、またたく間に宮古全域に運動が拡がった。役人たちの数々の妨害を乗り越え、明治初期に高まった自由民権運動のうねりに後押しされ、遂に国会請願に成功し、宮古・八重山の農民を300年近く苦しめ続けた人頭税は廃止された。

 宮古上布は薩摩支配時代には「薩摩上布」として、京都・大阪から全国へ流通した。人頭税廃止後は「宮古上布」として、製糖業とともに宮古の重要な産業になった。麻織物としては最高の品質を誇り、日本を代表する織布となった。

◎1921年平和世界博覧会で一等金杯受賞
◎1942年大日本技術工芸協会の保存品として一等一級に入選
◎1957年ブリュッセル万国博で銀賞その後、伝統工芸品に指定。重要無形文化財認定。「宮古織物事業協同組合」は行政の支援を受けて後継者の育成をしている。

宮古上布から様々な作品が生
まれます
宮古上布に囲まれるツルさん

宮古上布発祥の地に伝承館をつくることが最後の夢です、とツルさんは語る。

沖縄県宮古島市下地字上地
電話 0980 (76)6549


川平 俊男

川平 俊男氏
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。

- 農業ルネッサンス元年 - 2012年10月発刊 Vol.61

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