これだけ何度もこの国を大地震や巨大台風が襲っているにも関わらず、近年、火災や津波の被害を除けば日本の建造物の多くが倒壊を免れているのは素晴らしいことです。京都の東寺には有名な五重塔があり、また日本各地に同様の構造をもった古塔が存在していますが、どれだけ古くても、どれだけの衝撃や負荷を受けても倒壊するということがありません。ご存じのように、これらの木塔には中心に芯柱と呼ばれる周辺の木組み構造とは独立した柱が立っていて(もしくは宙づりにされています ! )、木組みで構成される屋根などの構造と柱のあいだには隙間が最初から用意されています。これが「あそび」の本質で、衝撃で一緒に揺れながら、どこかに極端な力がかかることを抑え、お互いが緩み合って全体を支えるという世界にも例をみない、日本が誇るべき処世術が建築にも生かされています。「大地は揺れる」「天気は変化する」という大前提のもとにそれを回避する方法を思慮した結果が生かされているわけですから、崩れない、倒れないのは当たり前といえるでしょう。これらの前提やそれを支える技術は現代の建築でも生かされていて、免震構造の高層ビルなどはまさにその恩恵です。「揺れるなら、一緒に揺れてあげましょう。」という造りになっているので、先の大震災では都心の高層ビルの上層階が大変な揺れに見舞われてもうこりごりという経験をされた方も多かったと聞きますが、それでも全倒壊して恐ろしい悲劇を生み出さなかったことは日本人の誇りでもあります。
生き方が問われる
世の中が大きく変わろうとしている今だからこそ、思い通りにならないことがたくさん起きてきます。「こうあるべき」というこだわりは、決して悪いことではないでしょう。ただ、そこに固執すればするほど、生きにくい時代になっていることは間違いありません。精神的に不安定になりがちなのは、まさにこの「思った通りではない」「このようであるべきでなない」「考え方があわない」という「~ではない」という思いに起因します。私たちがどれだけ大地が揺れて欲しくないと思おうとも、地震はやってきます。どれだけ美しい空気や大地を求めても、原発は既に事故を起こしましたし、中国からの汚染物質もやってきます。理想とする姿をイメージすること、環境をそれに近づけようとする努力は決して間違ってはいませんが、だからといって全てが理想通りにコントロールできるはずと思えば思うほど、現実の違いに唖然とすることがあるでしょう。これは人対人でも同じことです。他人の習慣や性格、考え方のパターンを変えることは、まずできません。変化しうるのは自分の認識だけなのです。「起きていること自体に意味はない、それにあなたが意味づけをするまでは。」という格言がありますが、意味を解釈するということには大きな自由があり、また自分の影響が及ぶ最も確実な範囲です。いま、自身が置かれている状況が自分の思い通りでないとすれば、自分の内側の何らかを変えていく以外には解決は見いだせません。すぐ解決されると思うこと自体が早急すぎるのでしょう。あれが悪い、誰がわるいと言い合ってきて、結局何も変わらずにやってきたのがこの国の現状であるともいえます。芯をしっかり据えながら、状況に応じて複雑に絡み合って支え合っている自分の認識を変化させる「あそび」こそ、今一番もとめられているスキルかもしれません。
「あそび」は「遊び」でもある
私はどちらかといえば遊ぶのが苦手です。言い換えれば、ストレス発散の方法が少ないともいえます。遊びはどのように体得されるのでしょうか?どうも、よく観察していると子ども時代に、子どもらしさを認められた人は遊べる大人になり、子どもらしさを否定されて育ってきた人は遊ぶのが難しい人になるようなのです。過去の教育上の取り組みから、ゆとり教育は間違っているという安易な結論が出て、この国の教育はまた知識偏重の方向に舵を切ることがきまっていますが、私に言わせれば、ほんとうの意味
で子どもの主体性を伸ばす「ゆとりのある教育」が公立学校で実践されてきたとは思えないのです。ゆとりとは、それぞれが自分の興味関心のあることをあらゆる体験から発見し、かりに関心が見つからない子には大人があれこれ支配的なコントロールをすることなく、ひたすら時期が来るのを待つということに他なりません。つまり大人に根気が求められます。ゆとり教育という定型句には、真のゆとりを感じませんでしたし、それに対応できる大人が少なかったともいえるでしょう。私が信頼するするきのくに子どもの村学園の堀先生がよく引用される言葉に「まずは子どもを幸せにしよう、すべてはそのあとに続く。」A・S・ニイル( イギリスの新教育運動の教育家: 1883年 ~ 1973年)という一節があります。子どもの幸せとは、子どもが子どもらしさを発揮する自由であり、大人の都合に合わせないとうことです。子どもは遊びを通じて、あらゆる成功と失敗の体験と人間関係のなかで自分というものを発見してゆきます。子どもに失敗を許さない(定型的評価もこれに含まれます)ということが、子ども時代を窮屈にし、大人になってからも幼児性が残ってしまい、社会生活を困難にする本質的な原因になり得ます。精神的な自立とは、子どもが子どもらしくある社会でこそ得られるもののように感じます。遊びはあらゆる発見の源泉であり、私もさらにより多く遊んで、学びをふかめ、生き方に「あそび」をもって芯に負荷をかけることなく、フレキシブルに生きていきたいものです。