羞恥心を克服する
前号で障害を持つお子さまの家族に共通する羞恥心と罪悪感について書きました。
障害に関係なく、私たちは〝人様の目を気にする生き方〟 に縛られ、他者から期待される役割やイメージからの逸脱を恐れます。
人間には所属欲求があるからこそ、所属した社会から排斥されないために、公的な自己像からの逸脱をコントロールしようとするものなのだそうです。
今の社会全体が多様性を認める方向性に向かいつつあるといわれていても、実際には人の個性や価値観、生き方を尊重するにはほど遠く。
比較し優劣を争い、個人の意見も正誤の狭い枠組みのなかへと押し込まれ、偏見や先入観はまだまだ過去洗脳された呪縛から解放されておらず、無意識レベルでは巷を横行しています。
発達障害を持つ次男は、幼いころなかなか言葉を発することができませんでした。
それでも人に伝えたい気持ちは人一倍あり、積極的に人に語りかけるのですが、気持ちだけが先走り、言葉の組み立てはオリジナルすぎて、まるで宇宙語。
想像力をフル稼働しながら耳を傾けなければ理解することは難しく。
かなり気長につき合ってくださる方以外は、まず目が点になり、「この子ちょっと変わってるわね」といった怪訝な顔をしました。
そんなとき、私は身が縮むような羞恥心に耐えられず、ついつい息子の言葉を遮り、自分がベラベラと喋ってしまったりしていました。
そしてそんな自分自身の態度を息子に悟られたくなくて、次第に心を許した人たちにしか、息子を紹介しなくなりました。
この美しい天使を奇異な目で見られたくなかったからです。
私は、無駄に息子を傷つける可能性のある偏見や差別的な視線を向ける人、環境から息子を全力で守りました。
人はみな、それぞれの経験からインプットされた記憶に基づく主観で外界を識別します。
それが偏見に満ちた色のついたメガネだとしたら、愛のない他者の観念によって息子が傷を負う必要はまったくないと感じたからです。
なぜなら、彼はとても崇高な存在であり、私にとって魂の教師だからです。
無条件の無償の愛を教えてくれた教師だからです。
私は何よりも、自分自身が母親として息子に侮辱的なエネルギーをかぶせてしまわないように、まずは自分自身の無意識層に根を張る「羞恥心を克服しよう!」と決めました。
「もうこんな自分は嫌!」発達障害を持つ息子に対して母親である私にできることは、とことん自分自身の恥の概念を壊すことでした。
それはつまり、自分自身の在るがままを認め、とことん愛するということでした。
両親の愛は生きる源
発達障害を持つお子さまの親御さんに伝えたいことは、どうぞお子さまを恥じないでくださいということです。
そして、そのお子さまを持ったことを誇りに思ってくださいということです。
周囲の心ない視線から全力でお子さまを守ってください。
盾になってください。
認めて認めて愛の言葉をかけ続けてあげてください。
お母さんからの言葉、お父さんからの言葉こそが自尊心を養います。
自分は存在していていいんだ、祝福された命なんだ、役に立ってるんだ、愛されてるんだ。
そんな、人間として一番大切な自尊心が育まれるのです。
自己信頼こそが人生を創造しながら生きる大きな力になります。
両親の愛は生きる源です。
迷惑な存在、恥ずかしい存在、という目で見られたり、心ない言葉の暴力にさらされたりすると、言われた本人は自分の存在自体を否定してしまいます。
生きる力を奪われ、創造力も失っていきます。
人の目と尺度でわが子を見るのではなく、どうぞハートの中心からこんこんと湧き出るご自身の愛の泉でお子様を見つめ、満たしてあげてください。