「僕はこれまでいろいろトランスフォームしてきたけれど、アキトはアキトのままでいいんだよ。最後はアキトに戻っていくんだよ」。留学前の18歳のころ、そう語っていた次男、アキト。トランスフォームというのは、〝自分ではない何者か〟に一生懸命になってみた、ということです。発達障害を持つ彼は、環境に馴染めず、人とうまくコミュニケーションが取れず、それでも必死に関わりを持とうと、環境に合わせ、人に合わせてきたのでしょう。しかしその虚しい努力をするほど、本来の自分らしさから遠ざかるばかりで、人知れず混沌とした暗闇を彷徨い続けてきたに違いありません。
けれど彼は、外界とコネクトするツールになりうる「映画」に出会ったことをきっかけに、本来の自分らしさというものを取り戻していきました。とてつもなく惹かれる、全身全霊で愛を注げる対象に出会い、それまで虚しさを感じていたこの世界に、生きる光を見いだせたのです。そしてその後、彼はこう語っていました。
「アキトがアキトでなくなることが怖いんだ。本当の自分じゃなくなることが怖いんだ。変わらない自分を目指したい。この人物〝自分アキト〟は楽しいから。このまま、アキトのまま、自分のままにすると面白いから」。
この言葉を聞いて、私は思わず自分の過去を振り返りました。女優をしていたころ、私は必死に人の期待に応えようと頑張っていました。しかしどんどんと本来の自分から逸れていき、ある日「止まれ!」という危機的な内なる声を聞いて、私は女優業をやめたのです。そのときこう感じました。「女優として与えられた役柄を演じることよりも、この、今生きている自分以上に面白い人物はいない!」と。人生はとてもエキサイティングで、次に何が起こるかわからない。内なる声に従って生きる〝魂の旅〟ほど、この命を躍動させるものはないと。
今を生きること
次男との対話は、実にさまざまな気付きをもたらしてくれます。発達障害というレッテルははられているけれど、彼の精神性は大人以上に成熟されています。それでもやはりこの社会で生きていくうえでは、さまざまな障害があることは否めません。しかし彼はそんな自分自身のことを慈しむかのように語りました。
「僕は一生涯アキトなんだよ。この自分から逃れることはできない。電車ってさ~、まるで人生のようだよね。止めることはできない、新しい冒険へと僕を導く。
Train is like my whole life where it takes me to a new adventure that is unstoppable.
たとえ悪い線路を走ることがあっても、良い時が必ずくる。だから僕は乗り続けるよ。僕の電車を。僕は自分を幸せにするよ。楽しく過ごす。楽しみながら生きる。そのためにやりたいことを努力するよ。だって最期は笑っていたいでしょ」。
私が彼と同じ18歳だったころ、自分の最期について考えたことを思い出しました。なかなか女優として自分の殻を破ることができず、怖れと自信のなさに苛まれて委縮していたときのことです。私は一人、自宅の鏡の前で、自分の顔を映しながら自分自身に問うたのです。
「もし、あと1年の命だったとしたら、私は今をどう生きるか?」
その途端、なかなか打ち砕くことができなかった殻が、音を立てて崩壊していったような気がしました。重く圧し掛かり、縛りつけていた制限から解き放たれ、私のなかからバイタリティーが溢れ出すのを感じたのです。
命には限りがあります。その道のりが長いか短いかなど自分でははかり知れません。いずれ終わる命ならば〝今を生きよう〟と覚悟が決まった瞬間でした。