先日、SNSで政治的なやり取りを見ていて、怒りがこみ上げました。「なぜ、こんなにわかっていない人がいるんだろう」。気づけば、反論の文章を打ち始めていました。相手の矛盾を探し、どう言い返せばこちらの正しさが伝わるかを考えていました。正直に言えば「伝えたい」だけではなく「言い負かしたい」と思っていました。論理的に勝つことで自分が正しい側にいることを証明したかったのだと思います。
結局投稿はしなかったのですが、それは哲学者のニーチェの言葉がよぎったからです。「怪物と戦う者は、自分自身が怪物にならないよう気をつけよ。深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗き返している」。そんな言葉です。ニーチェは『善悪の彼岸』で、絶対的な善悪などなく、ある人の正義は別の人には脅威に映ると説きました。
「正しいのは自分だ」という気持ちには高揚感があります。だれかを裁くとき、私たちは同時に「自分は正しい側にいる」という安心を手にしています。ただ、怒りそのものが悪いわけではありません。怒りは、大切なものを守ろうとする自然な反応です。だけど、その怒りには相手を見下す優越感が紛れていることがあります。「正義」という仮面の下で、攻撃している自分自身に酔ってしまうのです。
その夜、就寝時に「あんなふうに腹を立てるなんて、大人げない」「心の問題を扱っている自分が、感情に振り回されて」と僕が僕自身を責める「一人反省会」をしてしまっていました。そのとき聞こえてきた自分を責める声が、SNSで他人を裁いていた心の声と同じ口調をしていることに気づきました。心のなかの裁判官が、昼はだれかを裁き、夜は自分自身を裁いていたのです。
他人を裁くとき、僕は相手を思いどおりに変えようとしていました。自分を責めるときも、自分を思いどおりに変えようとしていました。どちらも、思いどおりにならないものを、力でねじ伏せようとしていたのでした。
もちろん、反省は必要です。必要なら謝り、次からおこないを改める。だけど、反省と自己批判は違います。反省には未来への希望がありますが、自己批判は過去への後悔から自己否定が始まります。
自分を責めているとき、脳ではストレスを感じ取る扁桃体が興奮し、自律神経が乱れます。それが毎晩続けば、眠りは浅くなり、心も体も休む機会を失っていきます。その緊張は、知らないうちに周りにも伝わります。とりわけ子どもは、親の言葉より先に、親の「状態」を感じ取っています。ただし「周りに迷惑をかけてはいけない」とさらに自分を責め始めるのは本末転倒です。
大切なのは、自分を責めていることに気づくことです。「責めるのをやめよう」と念じても、うまくいきません。心のなかの裁判官は理屈で説得することができません。そういうときは、体のほうから働きかけてみます。自分を責める声が聞こえてきたら、手を胸に当てて、ゆっくり3回深呼吸をして、自分にこう言ってみてください。
「また責めちゃってたね、ごめんね」
責めている自分を、別の自分がさらに裁くのではなく、自分の気持ちに寄り添ってあげましょう。胸に手を当てるのは、自分で自分を抱きしめてあげる象徴です。言葉と手のぬくもりで、心のなかの裁判官に「休んでいいよ」と伝えてあげましょう。肩の力がふっと抜けていきます。
「自分を責めない」とは、自分を甘やかすことではありません。心のなかの裁判官に少し休んでもらうことです。そうやって自律神経を整えることで、心と体を同時に癒してあげましょう。
絶対の善も、絶対の悪も本当は存在しません。それは他人にも自分にも、同じように当てはまります。
