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インタビュー取材しました。

生かされた命で一歩前へ 荘司 隼也 氏・荘司 久美子 氏インタビュー

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2024年元旦に能登半島で起きたマグニチュード7.6の地震。広範囲に及んだ被害と、日常生活を奪われたままの多くの方々を思うと無力さを痛感します。今回は、以前、弊社のスタッフとして勤務していた荘司隼也さんと、石川県珠洲市の出身である妻の久美子さんに、震災当日、久美子さんのご実家で被災した体験について話を伺いました。

トレイルランニングの会場で、被災地支援の募金を呼びかける荘司隼也さん(右)と久美子さん(左)

荘司 隼也(しょうじ じゅんや)

芦屋市生まれ。4歳で阪神淡路大震災を経験。ランニングに情熱を見出し、ランニングコーチやランニングイベントの企画に携わる。また、幼少期からのアトピー改善のため自然食を中心とする生活を実践。スポーツ店やプレマ勤務を経て、2023年1月に妻の久美子さんとともに石川県野々市市に移住。

荘司 久美子(しょうじ くみこ)

石川県珠洲市生まれ。大学進学を機に大阪へ出て、薬剤師となる。京都市の病院に勤務していたときに隼也さんと出会い結婚。故郷や両親への想いから夫婦で石川県へUターンする。野々市市の薬局に勤務するなか、2024年元旦に実家へ帰省中に家族や夫と共に被災した。

 

珠洲市に住む
両親のそばへ

——お二人が住んでいた京都から石川県に移住した経緯を教えてください。

隼也 僕は芦屋市で生まれ育って、4歳のときに阪神淡路大震災を経験しています。もともと走るのが好きで、大学卒業後は京都にあるランニングやトレイルランニングの専門ショップで6年ほど働いていました。じつは子どものころからアトピーが酷くて、特に大学生になってから悪化したんです。いろいろな治療法を調べたり試したりするうちに、いちばん大切なのは食生活や睡眠だと気づき、自然食に興味を持つようになりました。食事に気を配っていたら、アトピーだけでなく、ランニングのタイムが上がるなど、身体能力にも良い影響が出るのを体験して、どんどんのめり込んでいきました。あるとき、プレマさんが「社内便担当者を募集」という告知を出しているのを見て、自然食の業界に飛び込んでみたいという思いで応募しました。奥さんとは京都で出会って、いつか石川県に住もうねという話はしていました。僕は次男なので故郷に帰る必要もないし、どこへでも行くよという感じで。

久美子 私は高校卒業まで珠洲市に住んでいました。10代のころは、どこへ遊びに行くにも車で1時間以上かかってしまうし、田舎だなと感じていました。大阪の大学に進学し、薬剤師として京都で働き始めてからも、憧れていた便利な生活を楽しんではいたのですけど。彼と結婚したこともあって、だんだん落ち着いた環境で暮らしたいと思うようになったんです。自分の年齢が上がるにつれ、珠洲市に住む両親のそばにいてあげたいなという気持ちもわいてきました。彼に伝えたら快くいいよと言ってくれたので感謝しています。私は、彼と違って自分の健康にはまったく無頓着でした。西洋医学の知識に偏っていたこともあって、「調子が悪くなったら薬を飲めばいい」と考えていたので、仕事が忙しくて夜遅くに食事を簡単にすませることも多かったですし、睡眠も十分にとらずに日々を過ごしていました。でも「そもそも薬が必要な状態って、全然普通じゃないよ」と彼に言われて、生活を少しずつ変えていったんです。二人で石川県に移るタイミングを見計らっていたのですが、「いつと言っていても決まらないし、今にしよう」となって、2023年1月に京都から野々市市に引っ越しました。

隼也 野々市市から珠洲市までは、車で3時間近くかかります。僕の就職先が金沢市の隣りにある野々市市で見つかったので、いったん街中に住むことにしました。奥さんは薬剤師として働き、僕は自然食品などを販売する「のっぽくん」に勤めながら、個人事業としてランニングコーチとランニングイベントの企画運営をしています。

——そして昨年の年末年始に、久美子さんのご実家に帰省されているときに被災されたのですね。

隼也 12月31日に帰省してみんなで新年を迎えました。1日に地震が発生したときは、奥さんは家族と一緒に家の中にいて、僕はちょうど津波の被害が大きかった地区をランニングしていました。

 

目の前の景色が
一瞬で変わった衝撃

——どんな体験をされたかお話いただけますか。

久美子 16時6分ごろに震度5がきて、その4分後に震度7がきました。私は、母と、帰省していた妹と一緒に家にいました。父は集会所に出かけていて不在でした。まず震度5の揺れに驚いて、すぐに母と妹と三人で避難先に向かう準備を始めました。私は薄着で走っている彼のための暖かい服と自分の貴重品などを離れた部屋に取りに行き、戻るときに震度7がきました。ちょうど玄関で、扉だけ開けておこうと手を伸ばしたものの、あまりの揺れに立ち上がることもできず、尻餅をついたまま体がころころと転がっていました。周りが揺れているのを自分が見ているのではなく、地面ごと自分が揺れる、すごい衝撃でした。その時間がかなり長く感じられて、ようやくリビングに行ったら、母と妹がテーブルの下で私を呼んでいました。うちは食器棚などの大きな家具が倒れることはなかったのですが、中の食器はガシャガシャに割れていました。それから、戻ってきた父と合流して避難を始めました。

隼也 僕は、震度5強で大きめの地震がきたなと感じたんですけど、能登半島はここ数年何度か地震が起きているので、そのうちの1回だろうと受け止めたんです。辺りを見回すと大丈夫そうだったので、そのままランニングを続けました。電話で奥さんに「迎えに行くね」と言われたのですが、大丈夫だよと言って切った。そこで、震度7がきました。普段から体を鍛えている僕が、転んで、その場に立っていられないほどの揺れでした。走っていた大きな車がぴたっと止まり、横に激しく揺れていたので、なんだこれはと思って。スマホの警報音と、港から「大津波警報発令」というサイレンが聞こえてきたのですが、海を見ても変化はわからなかったし、訓練なのかと思ったぐらい。今振り返るとおそらくパニックになっていたと思います。わけもわからないまま、とにかく家に帰らないと、という焦りで家のほうに走り出しました。さっき来た道の周辺で家が倒壊していて、瓦礫や土が道路を覆っていたので、それを乗り越えながら走りました。家が潰れていたらどうしよう、みんな生き埋めで僕だけだったらどうしようと、そればかり考えていました。直後に電話がつながって安否がとれたので一瞬ほっとしたのですけど。奥さんは「迎えに行くから」、僕は「いや走って戻っているから」とやりとりしたのが発生直後の状況です。

——想像するだけで本当にドキドキします。

隼也 目の前の景色がぱっと、映画のセットが切り替わったかのように一瞬で変わりました。僕は海沿いの道から小高いところに登ったところで地震が起きたので、またその道に戻るか、山のほうに行くべきかをスマホの地図で検索しました。山側の道は遠回りだし、そんなにすぐに津波はこないだろうと思って来た道を戻っていたら、途中でおじさんに声をかけられ、「海がこんなに引き潮になっているのは見たことがないから、兄ちゃん、うちの裏山に登れ」と言われて。ふと海を見たら、信じられないぐらい海の底が見えていたので、一緒に裏山に登りました。そこでまた地図を見て、あと少し行けば家に戻れそうな道を見つけたので降りていくと、すでに辺りが波に覆われて車が2、3台流されていました。いったん引き上げたのですが、僕は薄着で寒かったし、いつ救助が来るかわからないと思い、しばらくしてまた降りていきました。もう波が引いて膝下までの水たまりになっていたので、このなかに足を突っ込んでいけば辿り着けるだろうと。瓦礫を乗り越え、灯油が漏れているなかをくぐり抜けながら進みました。今思えば地面に割れ目がなくてよかったと思います。なにも見えないので、なにもないように祈るだけでした。

電話も途切れがちで、何回目かで「今どこにいるの」と聞かれたのですが、「もう迎えはいいから、それぞれに集合場所をめざそう」と伝えました。僕は、阪神大震災のときの経験をうっすら覚えていて、たぶん車では走れないとわかっていたので。走るのが一番機動性が高いだろうと思いました。

——久美子さんはご家族と一緒に避難先へ向かったのですね。

久美子 車2台に分かれ、私は彼を迎えに海の方向へ、家族は避難先の病院へ走り出しました。でもすぐに、橋と道路の境目が大きく割れていて、これは絶対に車では行けないとわかりました。私も冷静じゃなかったので、大津波警報が聞こえているのに、車を降りて海抜が低い所でウロウロしてしまったんです。何分かして上の高台から「なにしてんねん!」とワーワー言われているのにやっと気づいて。慌てて高台に上り、しばらく一人でいました。そこで妹から、今この道を通っているから合流してとメッセージが届いたんです。そこで、最初は私が迎えに行かないと彼が死んじゃうと思って身動きを取れずにいたんですけど、いや、彼はそんなにヤワではないと思い直して。過酷な冬山でランニングをして生き延びてきたんだし、私がここにいる意味はないし、生きていてね!と思って避難先へと動き始めました。途中、奇跡的に妹の車と合流できました。ただ、どの道もあちこち崩れて地割れもしていたので、途中からは荷物を抱えて歩き出し、そこから2時間かけて病院に辿り着きました。その間、彼は身軽に走り、私たちよりも2時間早く病院に着いていたんです。そのときすでに夜20時ごろ。みんな生きていてよかったと、心底思いました。

 

なにごともない日々は
奇跡だと感じて

——避難先ではどのように過ごされていたのですか。

隼也 病院で2、3日過ごしてから指定避難先の中学校に移りました。毎日、必要なものや直面する問題が変わっていくので、その都度考えて動いていた感じです。

久美子 初日は、自販機でソーダ水やジュースなどなんでもいいから買って、とりあえず水分だけ摂って寝ました。翌日から少しずつ食べ物をどうしようかとなって。


隼也 僕が車を取りに行くにしても、またいつ地震が起きるかわからないし、そもそも使える道があるのかを明るいうちに探そうとか。ルートの情報を聞いて、やっと家に行けてからは、食料を避難所に持ってきて食べたり。お風呂は3日目に、家の裏に出ている湧き水を浴槽に貯めたときに、冷たいけどこれで洗っておこうとその場で洗いました。その間もずっと震度4や5の余震が続いていましたね。

久美子 実家は倒壊しませんでしたが、その後の余震で崩れた家もあるし、雨漏りが酷いので住めるかどうかはまだわかりません。でもいずれ戻ることになるので、家具を動かして安全な場所を確保したりしていました。私は、お正月になんてことだとは思ったんですけど、両親だけでなくて本当によかったと思っています。避難生活のなかで、強がりの母が、新聞のテレビ欄を見ながら一度だけ泣いていました。今まで当たり前のようにテレビを見ていた日常が遠くへ行ってしまったことを実感したのでしょう。まだ悲しいこともあるし、まだやらなくてはいけないこともたくさんありますが、母の傍にいれば体を寄せて「大丈夫やで」と言ってあげることもできる。両親を遠くから励ますだけではきっと私の心が持たなかったので、私たちはこのときに一緒にいられて、とても幸運だったなと思っています。

隼也 僕は、2週間ぐらいして野々市市に戻ってきてからのほうが精神的にしんどいです。向こうでは気を張りながらもやること一つひとつに手応えを感じていたというか。こちらの地震前となにも変わらない普通の世界と、被災地の状況とのあまりにも大きなギャップに戸惑っています。珠洲市にいても道を直したり誰かを助けたりできるわけではないけど、ここにいてなにもできないことのほうが苦しいんですね。

久美子 私も戻ってきてからのほうが無力感があります。誰かに「能登はすごかったね」と言われると、当事者としてはもやもやして、まだ心が追いつかないことがありますね。

——地震前と後で、ご自分のなかで変わったと思うことはありますか。

久美子 これまでは、「なにもないことが前提」の生活を快適にするための物を買い、大事なことの優先順位を決めていたんですけど。いざ命からがら逃げるという体験をしたときに、家や車とか、大切にしている物と一緒には逃げられないということがわかりました。きっとこれから物を選ぶときや、大切にしようと思うことは、以前とは少し価値観が変わりそうです。

隼也 僕はこれまで会社の仕事と並行してやっていた自分のやりたい事業を、これからは珠洲市で本業としてやれないかと思っています。僕は阪神大震災も経験して、今回も震源地で走りながら被災したけどまだ生きている。生きているというかなにかに生かされているような気がしています。だったらもう、自分のやりたいことを今やればいいじゃないかと。珠洲市の人に話を聞けば、二、三人に一人は家族を失った人がいます。今回、本当に人はいつでも死ぬということを見せつけられて、「今回は生かしておくけど、すぐ死ねるからな」って言われたような気がするんです。ただの災害ではなく、自分の生きる道に気づくきっかけにできたらと考えているところです。

地震発生直後の珠洲市内

- 特集 - 2024年3月発刊 vol.198

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