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インタビュー取材しました。

まとうものからしあわせな循環を作る 株式会社アバンティ 代表取締役社長 奥森 秀子 氏 インタビュー

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日本におけるオーガニックコットンの草分けとして、赤ちゃんから大人まで心地よく使える衣類や暮らしの品を提供する株式会社アバンティ。オリジナルブランド「プリスティン」の製品は、「本当に気持ちいい」と好評です。創業期からものづくりを支えてきた奥森秀子さんに、その歩みと仕事への思いを伺いました。

「店頭でお客様と会話をするのがなにより好き」と話す奥森氏。お客様が育てた綿と製品を交換できる「コットンバンク」など、人と人のつながりを生む多様な活動もおこなう

株式会社アバンティ
代表取締役社長
奥森 秀子(おくもり ひでこ)

栃木県生まれ。百貨店の研究所を経て、1995年アバンティに入社。 オリジナルブランド「プリスティン」のディレクタ-として商品開発を手がける。 2018年に代表取締役社長に就任。「子どもたちに明るくきれいな地球を残すこと」を使命に、オーガニックコットン製品の製造・販売、コットン製品の再生事業などをおこなっている。また「国産綿復活プロジェクト」や子どもたちの支援など、社会活動にも尽力している。
▶︎株式会社アバンティ https://avantijapan.co.jp/

 

洋服が好きで好きで
たまらなかった

——小さいころから洋服が好きだったんですか?

大好きでした。朝、母が用意した服に「このコーディネートは今日の気分ではない」と言って、よく母を困らせていました。母と押し問答になり、学校を休んだこともありましたね。お人形の着せ替えをしたり、母に服を作ってもらったりして、本当に服が好きで好きでたまらなかったんです。

私は栃木県の小さな村の小学校に通っていたのですが、ランドセルも「ピンクがいい」と主張して、叔母さんがわざわざ東京で探してきてくれたんです。でも当時は、女子は赤、男子は黒という時代。それがきっかけでいじめられることもありました。そんなことになるとは思わず、親にも隠していて……。でもそれほど、自分の「これを着たい」という気持ちにまっすぐでした。

——そして、高校を卒業後にデザインの勉強をされたんですね?

私は美術の勉強がしたかったのですが、両親に「東京に出てはだめ」「大学は行かなくていい」と言われて。教師になるならと唯一認められたのが、美術大学の短大でした。でも、東京に出てしまったら、もうこっちのものですから(笑)卒業後は、東京でファッション業界に就職しました。

——どんな仕事でしたか?

百貨店の研究所で、販売戦略から商品企画、海外の買い付けなどを担当していました。時代はD‌Cブランド全盛期でしたから、コム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモトなど、「黒一色」の世界。お給料は全部、黒い服につぎ込んでました(笑)。その後、20年ほど働かせていただきました。

——好きなファッションの仕事に全力投球されていたと思うのですが、アバンティに転職したのはなぜですか?

アバンティの創業者であり、前社長の渡邊智惠子さんと出会ったことです。当時の私のボスである山田節子さんがセッティングしてくださいました。最初は「うちでごはんでもどう?」という感じで、その場がまさか「お見合い」の席だとは思ってなかった(笑)。当日は、「オーガニックコットンをやってらっしゃるんですね」と軽く触れた程度で、後日、正式に声をかけていただきました。でも、すぐには返事ができなかったんです。なにせ、社員数が2000人規模の会社から、わずか3人のベンチャーに移って大丈夫かしら?と。決心するまでに1年ほどかかりました。

じつは、オーガニックコットンの製品はその前から知っていたんです。でも最初に目にしたときは、「うーん、これをお金を出して買う人がいるのかしら?」という印象でした。

一方、ファッション業界で長年働いてきたなかで、葛藤も抱えていました。それは、デザイナーとしてこれ以上はないという商品を出して、お客様に支持されていたとしても、すぐに終わりがきて、「次」を求められること。以前、人に「ファッションは根なし草だね」と言われ、「本来は根があるはずだ」と違和感を持ったことを覚えています。そして、服を作る工程では、大量の薬剤を使ったりして人や環境に問題が起きていることも気になっていました。オーガニックコットンのコンセプトは、非の打ちどころがない。でも商品に魅力がない。私がそのギャップを埋めることに役立てるなら、生涯かけてやる価値があると思いました。40歳にして、新しい道にかけてみることにしたんです。

商品に「ときめき」を
足していく

——入社後はどうでしたか?

最初はまるで霧のなかにいるような感じでした。アパレル未経験のスタッフが、原綿から糸を紡ぎ、その糸で生地を織って、洗いの工程まで、繊維業界全体が担うような仕事を社内でやっているのを見て、驚きました。こんなことまで自分たちでやるのだなと、初めて気づいたんです。1年ぐらいして、ようやく全体を見渡せるようになりました。

——商品を魅力的にするために、なにを変えていったのでしょう?

最初に目を向けたのは「ハーフトップ」というブラジャーで、生地とゴムだけでできていました。それにブランドネームをつけることで、デザインとしての第一歩を踏み出したんです。それと同時に、やはり女性にとってアンダーウェアは、心がときめく存在であってほしいとも思っていました。たとえば、レースは人気ですよね。でも当時は、天然素材のレースやストラップは手に入らなかったので、自分たちで素材開発から始めて、肌に触れる部分はすべてオーガニックコットンで仕立てる商品づくりをめざしました。 そうはいっても、ブラジャーは、製造ロットがとても大きいんです。まだ開発段階で大量発注などできるはずもなく、工場に「必ず恩返ししますから」とお願いするしかありませんでした。その情熱を信じて、引き受けてくださった方々のおかげで今があります。大きな挑戦でしたが、それがすべての商品の原点だったように思います。

——すべてがゼロからで、心が折れそうなこともありましたか?

まさに行商のように、一件一件、開拓していきました。取引先からは「うちの商品をこんなふうに加工してくれたら買うよ」なんて言われて。展示会では、「こんな白い服、おかしいわね」と笑われたこともあります。でも、私は「これは環境にいいんですよ」と、ためらうことなく伝え続けてきました。地球にとって本当に良いことだと信じているし、商品に「ときめき」さえ足せば、きっとだれかの心に届く。そう信じて疑わなかったんです。女性ばかりの集団って、理屈よりも直感で突き進むから、無敵です(笑)ただし、創業者の渡邊智惠子さんとよく話し合って決めていたのが、理想で終わらせないことでした。「ほらね」と言われないように、しっかり経営をして黒字を出すこと。そうでなければ、信頼してもらうことはできません。

そんなふうに数字と向き合いだしてから、商いのおもしろさにも目覚めました。自分たちで企画したものを工場で作ってもらい、それをお客様が買ってくださることで、売り上げになること。その流れを肌で感じられることがとても新鮮で、「あぁ、私はこういうことが好きなんだな」と、新しい扉が開いたような感覚でした。

——どう広まっていきましたか?

初めは、年配の女性のお客様が中心でした。肌が敏感になって、肌にやさしいものがいいから、ということで選んでいただいていたんです。だれもオーガニックコットンを知らないところから始まり、次第に、「聞いたことはある」とか「ベビーギフトでもらった」というふうに、少しずつ若い女性たちにも広まっていきました。2005年に第一号の路面店ができてからは、お客様から直に「使ってよかったから友人にプレゼントする」とか「本当に気持ちいいのよね」といったお声を聞くことが増えて、本当に嬉しかったですね。今では、ベビーやメンズ、暮らしのものまで幅広く手がけています。

 綿が弾けたオーガニックコットン

しあわせが循環する
暮らしの提案

——近年の自然環境の変化に対してどんな危機感をお持ちですか?

今ではS‌D‌G‌sが浸透し、異常気象や感染症の流行など、暮らしのなかで環境問題の影響を感じざるをえないことが増えてきました。だれもが「自分ごと」として、環境について考える時代がきていると思います。まず、国内の衣類の自給率が原料ベースで0%ということが大きな問題です。今、世界では戦争が起きていたり、経済成長中の国で人口爆発が起きていたりします。食料の自給率も30%台です。将来、綿などの原料が輸入できなくなれば、食べるものも着るものもない、という状況に陥るかもしれない。それくらいの危機感があります。だからこそ、国内でみなさんと一緒に綿を育てる活動にも取り組んでいます。

——「メイドインジャパン」にこだわる理由も、そこですね。

はい。日本には素晴らしい技術がたくさんあります。たとえば、福井県の経編工場では、レースのような繊細な生地を作っていて、海外のハイブランドからも注文があります。一方、多くの国内メーカーは、安く大量生産できる海外工場に目を向けがち。私たち日本人が、その価値を知らないのが現実です。だからこそ私たちは、日本で、適正な価格で作ります。日本版のフェアトレードを実現したいのです。

——生産者さんはどんな課題を抱えていますか?

後継者不足や仕事の減少に悩んでいます。機械を買い替えられなかったり、台風で壊れた屋根を直せなかったりして、廃業に追い込まれる現場をいくつも見てきました。私たちの発注はごくわずかですが、なにかできないかと考え、「アバンティ・アライアンス」を設けました。売り上げの一部をドネーションとしてお渡ししています。もちろん将来的には、仕事だけで潤うのが理想。一人でも多くの方に、「値段は高めでも、良質で長持ちする服」をまとう喜びを感じてもらえたら、日本のものづくりもサステナブルになると思います。

——国産綿の栽培プロジェクトについて教えてください。

きっかけは東日本大震災です。福島では津波や原発事故の影響で、農作物の生産や販売が厳しい状況でした。それなら、塩害に強く、食べるものではない「綿」なら売れるかもしれないと考えたんです。最初は企業のノベルティ向けでしたが、それだけでは収量を増やすことができないと気づいて。現在は「アバンティコットン倶楽部」を立ち上げ、2030年までに「プリスティン」の国産綿混率2%をめざして、本格的に取り組んでいます。同時に、「ゼロ・ウェイスト」「ノー・プラスティック」もめざしています。

日本で綿花の栽培が途絶えたのは、儲からなかったからです。だからこそ、私たちにはいかにお金が回る仕組みを作れるのかが問われています。現在は、農家さんから高い価格で綿を買い取っていますが、長くは続けられません。そこで、ビール作りや独自のインセンティブ創出など、新たな試みにも挑戦しています。

——常に挑戦していますね。

じつは、社名の「アバンティ」はイタリア語で、「常に佇むことなく一歩前進」という意味です。それでイタリアでは青信号を渡るときに、アバンティと言ったりします。私たちは、いつもアバンティ(青信号)。トライにはエラーもつきものですが、そこから学ぶことも多いんです。アバンティには、お客様の喜びや社会の変革につながると信じて、挑戦し続けられる土壌があると思います。

——今後のビジョンを教えてください。

まず、社員が「この会社で働けてしあわせ」と思えることが一番です。それから、まとうことと同じように、「食」も大事にしています。じつは私は食べることが大好きなんです。社員食堂をやりたいと思っているぐらい(笑)自分たちで作ったお米や味噌、各地からいただく食材を使って、ときどき社員みんなで食卓を囲むこともあります。やはり、「まとうこと、いただくこと」は人が生きる基本。中国の古典に「飲食これ大薬、衣服これ大薬」という言葉があります。つまり、正しく食べ、正しい衣服をまとうことこそが最大の薬ということです。人も自然も、大きなトラブルに見舞われる前に、暮らしを見直していくこと。その大切さを、これからも責任を持って発信していきたいです。未来の子どもたちのためにも、もう待ったなしだと思っています。

脱ぎたくなくなってしまうパジャマ

オーガニックコットン100%のやさしい肌触りともっちりした生地が気持ちよく、一度身に着けたら脱ぎたくなくなってしまうパジャマです。秋冬には長袖も。

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