1970年代に、自然と共生する農業や地域をめざして、若者3人が立ち上げた無茶々園(むちゃちゃえん)。愛媛県の明浜地域では、今もその思いを受け継ぎながら、大切に育てた柑橘の産地直送販売や、活気あるまちづくり事業を展開しています。その中心を担う大津氏に、活動とその想いについて伺いました。
複数の組織のトップを担い、多忙な日々を過ごす大津氏。「たまの休日は、ほとんどみかん山に行ってます。みかんが唯一の癒しですよ」と笑う
株式会社地域法人無茶々園
代表取締役
大津 清次(おおつ せいじ)
愛媛県西予市生まれ。23歳のときに無茶々園の最初の社員となる。協同組合の運営方式を土台にした組織づくりに貢献し、2009年に株式会社地域法人無茶々園の代表取締役に就任。以降、「自給するまち」をモットーに、食品加工やオリジナル商品開発、福祉・教育事業など、地域の課題解決のための多様な事業をおこなっている。現在、関連会社の役員のほか、日本労働者協同組合連合会副理事長、第三セクターの代表なども務める。▶︎無茶々園 https://www.muchachaen.jp/
有機栽培のみかんから
まちづくり運動へ
——大津さんは無茶々園の社員第一号だそうですが、入社したきっかけはなんですか?
私は無茶々園がある愛媛県西予市の明浜で生まれて、みかん農家の長男として育ちました。そのまま継ぐものだと思っていましたが、中学のころに父親が農業をやめたんです。高校卒業後は迷いながらも自営業をしようと考えて、運送屋を開業しました。そのお客さんのひとつに無茶々園がありました。3年ほど経ったころに、創業者の片山から「入らないか」と誘われたのがきっかけですね。
——無茶々園は1974年に有機農業を志す若者3人から始まって、大津さんが入られた1988年ごろは、ちょうど全国的に広がり始めたころでしょうか。
無茶々園は、「無農薬栽培は無茶なことかもしれないが、 無茶苦茶にがんばってやってみよう」との先代たちの思いで始まりましたが、当然すぐには販売できるものが育たなかったようです。理想の農業を追求していくほどに、この運動が食生活や健康、環境、教育など暮らし全般に及ぶことが見えてきて、まちづくり活動へと広がっていきました。私が入ったのは、マスコミに取り上げられて、地元で有機栽培の生産者や全国の消費者会員が増えてきたころですね。ただ、当初はなにも知らずに入ったので、片山と一緒にやっていくなかで、少しずつ学んでいきました。
——創業者の思いや、無茶々園ができた背景について教えてください。
昔から、田舎では芋や麦、蚕を育てながら食糧を自給し、地域で経済を回していました。この辺りは海にも山にも恵まれているので、住人の多くは半農半漁だったんです。ところが昭和36年に農業基本法ができると、各地域で商業目的の農業に切り替わります。愛媛県はみかんだということで、急速に柑橘栽培が広がりました。その10年後には、みかんは過剰生産になり、価格が崩落。私の父親もそうでしたが、その世代は、みかんを作っても食べていけない状況でした。それだけでなく、毎年同じ土地で同じ作物を育てる連作をするために、一般的には土壌くん蒸剤などの農薬がたくさん使われてきた。それによる環境問題や人体への健康被害が指摘され始め、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)や『複合汚染』(有吉佐和子)が大きな反響を呼びました。無茶々園が立ち上がったのは、環境や食の問題に危機感を抱いた農家や消費者たちが集まり、有機農業運動を始めたころです。「環境破壊をしてお金儲けする農業はおかしいんじゃないか」とか「市場や小売りに振り回される農業は長続きしない」と。そのころから都市部を中心に、有機栽培のみかんが欲しいという需要が出てきました。消費者と農家が、環境に良くて美味しい、持続可能な農業をしていこうと一致したことで、「産直のしくみ」という、無茶々園の土台ができていったんです。
——当時としては先駆的な取り組みですね。
みんなの意識が高かったというより、有機栽培のみかんが高く売れたので、多くの農家は食べていくために有機農法に切り替えたというのが実際のところです。有機農業運動を軸に、とにかく「自立した百姓、自立した地域づくり」をめざしてきた。消費者や仲間から学ばせてもらいながら取り組んできたことが、現代に合うようになったということなのだと思います。
「自分たちでやる」という
主体性を持つために
——2004年に、関連法人(現在5社)をまとめる地域協同組合無茶々園ができました。なぜこのしくみを選んだのでしょう?
協同組合はご存じのとおり、出資した一人ひとりが一票を持ち、組織の運営に参加するしくみです。田舎ではもともと「結」や「講」など相互扶助の文化で、なんでも話し合うのが基本。事業優先ではなく、地域の暮らしがどうあるかが大事なんです。そのなかで、私は協同労働の協同組合の運営のしくみに非常に関心を持っていました。たとえば生協や農協の主体は消費者で、職員に決定権はありません。片山は、これから地域が共同体としてうまくやっていくには、働く人主体の組合が必要になると考えて、1995年に日本労働者協同組合連合会(ワーカーズコープ)に加盟しました。そのころ東京で販路を拡大していたときだったので、「ワーカーズコープでも売ってこい」と言われて行ったところ、高値でたくさん売れたんです。当時のみかんの店頭価格は、大手スーパーでは10キロ箱が千円ほど。カタログハウスや生協などでは高値がつくという価格の二極化が起きていました。なぜ労働者協同組合でそんなに売れるのかと不思議で。労働者協同組合の運営について学ぶため、私は1998年から3年間ワーカーズコープに出向することにしました。戻ってきてから、新しい組織の在り方として「地域協同組合」を形にしていった。農家や漁師、大工など地域のいろんな職業の人たちが平等に参加できること、そしてみんなが主体性を持ち、「自分たちの町は自分たちでつくろう」と、つながりあえることが魅力です。
——地元の方々の反応はどうでしたか。
こういう考えは、都市の人たちや生協の組合員、学者さんたちには人気がありますが、地元では「なんだそれは」となります。とくに農家さんは一国の主人ですから、丁寧に話を進める必要がありました。議論はいっぱいしてきましたが、、地元の共感や理解を得てきたとはいえないですよ(笑)
無茶々園は、職員もお客さんも、圧倒的に地域外の人たちが多いんです。産直のしくみ、有機農業、組合運動をはじめとして、環境のことやまちづくりなど、外の人たちからいろいろ教わって、成長させてもらったという歴史があります。組織も人も、なかなか内側からは育たないもの。「よそ者」とのかかわりを通して地域の価値が見出されたからこそ、無茶々園が形づくられていったのです。
——反対もありましたか。
無茶々園の20周年のころに、ある地区にスプリンクラー施設ができました。公的にはこれで水も農薬も撒くことで農作業が楽になるといわれていた一方で、有機農家が増えていたので、施設が農薬散布をするかどうかで地区が分裂したんです。裁判にもなりかけたり、話し合いを続けたりして、結果的に施設では農薬散布はせず、灌水だけ利用することになりました。その代わり、無茶々園の組合員が施設の償還金を負担したのです。一時的に負担は増えましたが、振り返ってみればそれで良かった。組合員の数がさらに増え、有機農業を選んだ農家や集落は経済的にやってこられたからです。やはり経済がついてこないと、理念だけでは支持されません。今は時代の後押しもあって、地域全体の7割が組合員になったので、行政にも理解されるようになりました。でも市場の状況によってまた立場が逆転する可能性だってあります。
——そうなんですか。
この10年ぐらいは、温暖化の影響でみかんの生産にも影響が出ています。栽培方法を気候変動にも対応させながら、生産量と質を安定させるのが今の課題です。
——ストレートジュースが絶品です。
明浜は、柑橘の栽培条件に恵まれているんです。宇和海に面して段々畑があり、太陽の光と、海からの照り返し、白い石垣からの反射で、濃厚な味の柑橘が育ちます。農薬を使うのはやむをえないときに最小限だけ。農作物は、見栄えよりも生命力の強さと食べる方の安心が優先です。ジュースでおもしろいのは、伊予柑、温州みかん、ポンカン、甘夏、不知火などと、それぞれの味の違いを楽しめることではないでしょうか。
若い担い手も増えている生産者さんたち
自給できる町で
豊かに暮らし続ける
——代表を引き継ぐときは、どんな思いでしたか?
それまでは片山さんが描くものを実現することが使命でしたが、私が引き継ぐとなったころからは、自分なりの構想を持って、みんなを引っ張っていかなくちゃいけないという意識が出てきました。50年間変わらずに追求してきた持続可能なまちづくりを続けていくために、代表としてしっかり事業をやる、消費者と一緒に運動をやるという思いです。
——食品の加工をはじめ、福祉など新しい事業にもチャレンジされていますね。
現在は、廃校した地域の小学校に事務所を置いて、農産物や海産物の生産や、余剰果実を有効活用するアップサイクルのコスメ「yaetoko」、福祉事業の会社「百笑一輝」、子ども向けの食育のほか、新規就農者の支援などをおこなっています。いろいろ展開していますが、基本的には、経済的に自立するということが土台にあります。もともと農家は、自分に必要な食料と薪などのエネルギーを自給していました。1990年代に経済評論家の内橋克人さんが示した「FEC自給圏」という考えがあります。地域社会の衰退をもたらす市場原理主義の代わりに、食糧(Food)、エネルギー(Energy)、医療や福祉などのケア(Care)を地域内で自給することが、自立した町をつくり、持続可能な暮らしにつながるというもので、私たちもこれに共感しています。めざしているのは、震災などがあっても耐えられる町です。
——まちづくりのモデルとして、他の自治体からも注目されています。
そうですね、私たちは、自分たちの取り組みが社会を変える力になっているかどうかを常に意識してきました。私たちの事業の価値は、向こう側に人がいるということ。つまり、消費者にどれだけ共感してもらえるか、いかに巻き込むことができるかです。自分たちだけではできません。今は有機農業を軸にしたまちづくりだけでは難しいので、地域が自立に向かうような事業を組み立てていくことに注力しています。行政やボランティアではできないことを、自分たちがしっかり稼いで、事業体としてリードしていく必要があると思っています。
——消費者に共感されるのがポイントですね。
私たちの強みでもあります。ただモノを売るだけでは意味がありません。最近、農水省の「みどりの食料システム戦略」や環境省の「地域循環共生圏」、そして「労働者協同組合法」の法制化など、私たちが半世紀やってきたことが現代の取り組みになってきました。今は、消費者とどんな新しい関係性を築いていけるかを考えています。
——今後めざすことはなんですか?
共感・共生をもとにした、都市との新しい関係をつくること。そして、地域同士の産直システムを作ろうとしています。ただ、現状は売り物が育たない、育てる人が足りていないので、温暖化に対応したり、新規就農者を入れたりすることが目下の課題ですね。あとは、今後スーパーや運送業、飲食店など、地域内で事業継承ができない人たちが増えていくことが見込まれるので、House(不動産)やWork(雇用)の自給もやっていきたいです。モノを販売する以外に「コト」も大切です。シェアハウスやシェアスペースを設けて、外からの交流人口を呼び込むとか。ここに住む人、ここで働く人が「やっぱりここはいいよね」と言える場所を作っておきたいなど。理想ですが、、自然と共生し、死ぬまで働ける場所があり、人と人が交流できる、豊かな暮らし方のモデルとして発信し続けていけたらと思います。