過日、インドのヴァラナシを再訪しました。ヴァラナシは古代名をカシ、英語ではベナレスと呼ばれ、インド最古にして世界最古級の聖地です。少なくとも三千年以上前から、この地がヒンドゥー教などの聖地であることが記録されています。私はインドとの縁があって、プレマ株式会社を創業したという経緯があります。プレマという社名もサンスクリット語の「神聖な愛」という言葉に由来しているので、私にとっては第二のふるさとのような場所です。初めてこの地を訪れたのが約三十年前。その後何度も通いましたが、最後に来たのが2014年で、今回は十年ぶりの再訪となりました。
インドの話というのは、来たことのある人とない人で想像することがまったく違います。いくら言葉を尽くしても、インドの、特にこのヴァラナシのことは訪れたことのない方には理解しがたいことがたくさんあることも踏まえて、この先の話を続けます。行ったことのない方にとって、ヴァラナシをイメージしていただきやすいのが、ガンジス川(ガンガー)で沐浴する人々の姿でしょう。ここで沐浴することは、ヒンドゥー教徒にとってはこれ以上の至福はないほどの行為で、今生や過去生での罪を祓い、さらには生まれ変わりの連鎖から解放されると信じられています。特にヴァラナシは破壊と創造を司るシヴァ神が住まう場所とされていますから、死と再生が凝縮された場所になります。こうしてヴァラナシは、沐浴から祈り、火葬や祝い事も同じ場所で営まれる「生と死が共にある空間」となっています。
初めての「黄金寺院」
私はここに強く惹かれて何度も訪問してきたのですが、今回は特別なことがありました。この街が大聖地である最大の理由が、シヴァ神を祀るカシ・ヴィシュワナート寺院の存在です。一トン以上の金で覆われた寺院であることから黄金寺院とも呼ばれており、以前はヒンドゥー教徒以外は立ち入ることができなかった場所です。少なくとも私が知っている2014年までは、外国人が中に立ち入ることは基本的にできませんでした。しかし、インドのモディ首相の鶴の一声もあって、この寺院周辺が大々的にリニューアルされました。特に首相はこのヴァラナシを京都のようにしたいというのが口癖で、寺院関係者に私が京都から来たことや、以前より街全体がこぎれいになっていることを話すと、大歓迎されました。この寺院周辺の大工事はカシ・ヴィシュワナート回廊プロジェクトと呼ばれ、2021年にお披露目されてから、外国人が寺院内に入ることも可能な方法が確立され、私は本殿内部まで入り、参拝することができたのです。その興奮も冷めやらぬままビジターセンターに戻ってきたところ、地元のヴァラナシ・ヒンドゥー大学の学生さんから、博士論文の研究で、「新しい開発の光の中でのヴァラナシの経験」という論文にまとめたいのでと、アンケートを求められました。そこで受けた質問のひとつが大変興味深く、シェアさせていただきます。
「質問:先生のご経験を踏まえて、京都とヴァラナシ、それぞれの政府が自国の遺産を保護するためにおこなっている取り組みの長所と短所をどのように比較されますか?」
とても興味深いご質問です。簡潔に比較してみます。
・日本国政府は、京都の景観に関する特段の努力はしていませんが、地方自治体としての京都市は、一定の景観保護政策をおこなってきました。しかしそれは実に場当たり的で、残念なことに欧州などと比べると非常に貧相なものといえます。特に、日本国には相続税があることで、税金を払うために古い建物を取り壊して売却、または集合住宅等に建て替えないと遺族は税金が支払えないということが起きてしまい、年々緩くなる景観保護条例の影響もあって、歴史的景観がかなり失われてしまったことをとても残念に思っています。一方で寺社仏閣の内部やその周辺についてはより厳しい景観保護条例によって、狭いエリアの景観が維持されていることもまた事実です。私は古い民家(京都では町家と呼ぶ)の保存運動も担っていることもあり、日本国や京都市にはもっと劇的に厳しい歴史的景観の維持に関する規定を定めてもらい、また外国人による不動産購入にも制限をかけるべきだという私論をもっています。最近はオーバーツーリズムの問題も生じているので、これについても旅行者に経済的負担を求める各種の政策提言もおこなっています。
・ヴァラナシは、この十年間で圧倒的に清潔さが増しました。まだまだ改善の余地はありますが、以前に比べればガンガーの水質も見た目から良くなり、周辺にゴミ箱が設置されたり、清掃が強化されたりしていることで、インドの他の場所と比べよくなっていて驚きました。また、本寺院の回廊については非常によく整備されていますが、残念なことにインド人の巡礼者たちは相変わらず狭くて混乱した寺院周辺に長い列を作って暑さと騒音、混雑に長時間耐えている姿がありました。インフラは整備されても、運用が追いついてない印象を受けます。日本人の感覚では、聖なる存在をゴミで汚したり、信徒が苦難に耐えなければ参拝できないというのは早期に解消されるべき「人の問題」だと考えています。人の問題は根気強さでしか解決できません。また、清潔さや静けさと信仰の関係については、子どもたちの教育や宗教者の実践などを通じての啓蒙が必要だと考えています。