能登半島沖地震から約一年が経ちました。1904年に石川県輪島市で創業した谷川醸造は、100年以上も地元で親しまれている「サクラ醤油」をはじめ、現代では希少な「木桶醤油」を製造してきました。しかし地震によって醤油蔵は崩壊したまま、再建の目処は立っていません。四代目の谷川貴昭氏とともに家業を守ってきた谷川千穂氏に、奮闘し続けてきたこの一年間についてお話しいただきました。
仕事や子育てを経て「何事もがんばり過ぎないように」と意識するようになったという千穂さん(左)と、四代目社長の貴昭氏
谷川醸造株式会社
谷川 千穂(たにがわ ちほ)
金沢市生まれ。日本茶専門店での販売職を経て、結婚を機に輪島市に移る。谷川醸造株式会社の四代目・谷川貴昭氏とともに、醤油や味噌の製造・販売に携わる。若い世代にも気軽に「糀」を食卓にのせてほしいとの思いから糀や味噌を使ったディップソースやドレッシングなどの商品を開発。ブログやSNSを通して輪島の魅力や美味しいレシピなども発信している。
およね日記 https://tanigawa-jozo.com/oyoneblog/
いつも身近にあった
輪島の醤油を守りたい
——ご結婚を機に輪島市に移られて、輪島の魅力をどう捉えていますか?
私はもともと金沢市の出身で、結婚するまでは日本茶専門店で働いていました。輪島市は自然が豊かで、漁業や農業などの一次産業が盛んです。市街地には醤油蔵や酒蔵があったり、輪島塗りの職人さんたちがたくさん住んでいたりする。食材が豊富なので美味しいものを出す飲食店が何軒もあって、こんな小さな町なのにこれだけの産業があるってすごいなと思っています。都会にはない人とのつながりがあるので、みんなが近い距離にいる感じ。私と子どもたちは昨年の能登半島沖地震の後に、数ヶ月間、金沢市にある実家に滞在していたのですが、「早く輪島に戻りたい」と思っていたぐらい、おもしろくて大好きな町です。
——家業に携わってどう感じましたか?
結婚して10年ぐらいして代が替わり、夫が後を継ぐことになりました。それまで私は会社の仕事に携わっていなかったので、醤油や味噌がどのように作られているかや、発酵食品についても仕事を始めてから少しずつ学んでいきました。もともと食に興味があったので、知るのは楽しかったですね。特に醤油は仕込んでから発酵の力で大きく変化していくのを目の当たりにして驚きましたし、今は当たり前のように使っていますが、塩麹や甘酒で料理がぐんと美味しくなるのにも感動しました。これはみんなに伝えたいと思って、ブログで「離乳食で甘酒の使い方」を紹介したり、オンラインショップを開設したりと、発信にも力を入れていました。ただ当時を振り返ると、子どもがまだ小さかったので子育ても大変、会社も代替わりしたばかりで大変で、なにもかも一生懸命だった気がします。今はもういかに楽に美味しくごはんを作るかが大事です(笑)次世代の子どもたちにも日本の大切な食文化を「糀」から伝えたくて、「糀のディップソース」や「おかずみそ」など、手軽に食べられる食品を開発しました。震災後はお休みしていますが、醤油づくり体験や試食会などのイベントも開催していましたね。
——食文化継承のために、2011年に木桶で仕込む昔ながらの醤油づくりを再開されたそうですが、その醤油蔵が震災で全壊してしまったのですね。現在どんな状況ですか?
今もまだ解体を待っている状況です。発酵文化の素晴らしさを広めようといろいろ取り組むなかで地震が起きて、社長も私も、地元の醤油を守っていかなきゃという想いがより強くなったように思います。震災後にたくさんの声をいただいて、特に地元で馴染みのある「サクラ醤油」については「もうこれがないと生きていけない」と言われることもあって、みなさんにもより一層「醤油を大事にしよう」と思っていただいたようなのです。それまで当たり前にあったものが急になくなると、それぐらい困ってしまう。だからこそ、しっかり守っていきたいのです。木桶醤油も再開してからまだ歴史は浅いのですが、震災で中止せざるを得ないとしても必ずまた復活させたい。現在、全国の醤油生産量のうち、木桶で作られるのは全体の約1%だそうです。醤油蔵が全壊しても、私たちが「やめよう」と思わないのは、根本のところでやはり日本の伝統である天然醸造の醤油を消してしまいたくないとの想いがあるからなんですよね。
震災後に気づいた
「地元で」の想い
——地震発生時のことを教えてください。
元旦だったので会社はお休みで、私たちは昼ごろまで自宅でゆっくりしていました。毎年、午後は両方の実家に挨拶に行くのが恒例なので、その日もまず谷川の実家に行きました。それから金沢の私の実家に向かうことになり、その途中に用事で立ち寄った所で、あの地震が起きたんです。激しい揺れが1分ぐらい続いたらしいのですが、最初はなにが起きたかわからなくて、ただなにかすごいことが起きていると感じました。子どもがとても怖がっていて、周りの物がガチャガチャ倒れてきていました。揺れが収まってから慌てて外に出たけど状況がまったくわからなくて。とにかく自宅や会社が心配だったので、確認しに行くことにしました。でも、橋が壊れていたり倒れてきた建物で道が塞がっていたりして、本来であれば車で5分ぐらいで帰れるところを、迂回に迂回を重ねてなんとか辿り着くことができたんです。津波警報も出ていたので、周辺にはかなり緊迫感が漂っていました。家に近づくにつれ、周りの建物がかなり崩れているのを見ていたので、少し覚悟はしていましたが、帰ってみたらもう、醤油蔵が完全に崩れて無惨な状態になっていて。そのときは「ああ」という声しか出なかったですね。建物はともかく、家族や従業員が無事かどうかが心配でした。幸いみんな怪我もなく無事だったので本当に安心しました。
そこからの数日間は、まず自分たちがどう生活するかということで精一杯だったように思います。余震が頻繁に起きていて怖かったし、水や電気がないなかでどう過ごそうかと。同時に社長はこの先会社をどうしていくかも考え始めていたようです。崩壊した蔵についての取材が続いたので、社長はその対応に追われていました。私は子どもたちと数ヶ月間、金沢の実家に滞在させてもらっていました。一年経った今、町の方々の生活再建においては、避難所にいる方、仮設住宅に暮らす方、家の修繕が必要な方など、いろんな決断に迫られている方が多くいらっしゃいます。
——生活も会社も両方立て直していくのは大変なことですね。醤油蔵の再建と木桶醤油の製造再開までに必要なことはなんですか?
醤油蔵は今も解体できておらず、潰れたままの状態です。中に木桶があるのですが素人には簡単に取り出せないし、お願いできる人もなかなか見つからない。なにから手をつけていいかわからないという状況が長く続きました。2月にはクラウドファンディングで醤油蔵再建のための支援を募り、たくさんの方に応援していただきました。その後、5月にクレーンで木桶の一部を取り出すことができて、別の場所に保管しています。しかしそれも以前のように使えるかどうかはわかりません。ほかの醤油屋さんや同業の方などもとても心配してくださって、「今年はうちで仕込みをしませんか」とお声がけくださったところもあります。よその製品を作るのは大変なことなので、そのお気持ちがとてもありがたくて。でも社長は、いざそれを考えたときに、やはり「この土地で仕込んでこの土地で熟成させてこそ、うちの醤油だ」という自分の想いにあらためて気づいたそうです。ここで生まれ育って、ここでやらせてもらうのが当たり前だと思っていたけど、当たり前ではなかった。だからこそ、必ずここで再開するんだという想いを強くしたようなのです。
ここで製造を再開するには、まず醤油を仕込む木桶が必要です。本当にありがたいことに、ほかの醤油屋さんに譲っていただいたものや、以前使っていた木桶を職人さんに組み直していただいたものなど、少しずつ入手できそうな状況です。じつは全国に、伝統の木桶を復活させようと一緒に活動している仲間がいるのです。今のところ、蔵の再建の目処は立っていません。再建をめざしながら、先に蔵の横に小さな小屋を建てて木桶を保管しています。そこで先に仕込みを再開できたらと考えています。
——木桶醤油以外の製造はどのような状況ですか?
サクラ醤油は他県の醸造所に委託で作っていただいています。よそのレシピで作るのは本当に大変なことなので、とてもありがたいです。加工品については、糀や味噌の建物や、原料の糀を作る場所は無事だったのでその製造は少しずつ再開することができています。
地震で崩壊した醤油蔵
変わらぬ関係を
続けられることが救い
——震災後を振り返ってどう思いますか。
この一年間、時間だけが経ったという感じがしています。まだスタートにも立てていないと焦るときもありますね。いろんな感情があって忙しかったからか、一年が経つのが早かったです。今も生活していくことが第一で、そのうえで、木桶の醤油を仕込んで出荷できる状態になったときに「ああ、やっとここまできた」と思えるのかなと思っています。地域の方もみなさんそうですが、今は震災前の生活に戻るので精一杯。その「当たり前の日常」があってはじめて、新しいことにも目を向けられるようになるのではないかと思います。一方で、震災後はたくさんの新しい出会いがあって、いろんな方が支援してくださって、たくさんのご縁ができた年でもありました。
——町の様子はどうですか。
能登半島で唯一の主要道路が被害を受けたので、解体工事が始まったのが6月ごろになってからでした。今は少しずつ更地の土地が増えて町の風景が変わってきました。ここからどのように町が復興していくのか、まだまったく見えない状況です。少し落ち着いたころに豪雨被害がありましたし、なかなか明るい雰囲気にはならないですね。特に夜は、コンビニやスーパーなどは20時に閉まりますし、人気のない家が多いので、灯りが少なくて寂しいです。そんななかでも、飲食店さんや個人のお店ががんばっているのを見て励まされています。
——復興までに時間がかかりそうですね。
アクセスが悪いのと、宿泊場所が被害を受けているので、業者さんやボランティアの方は金沢などから通わざるを得ないなど、思うように進まない面があるようです。このあたりの人たちはみなさん本当に我慢強くて、これを我慢だとも思ってないと思いますが、「遅い」とか「もっとこうしてほしい」とは決して言わないんです。それがいいところでもあり、もどかしいところでもあります。
もとの生活をゴールだと考えると、本当にまだまだ先のような気がします。1年経ってもこんな状況なので、社長とも「これは長期戦だね」と話しています。思えばこの一年はけっこうのんびりさせてもらったんです。周りが今はそういう時期だからと温かく言ってくださるので、それに甘えている部分もあったりして(笑)これからも、焦らずに自分たちのペースで今やれることを一つずつやっていこうと思っています。
——遠くにいながらなにかできないかと思う方もたくさんいると思うのですが、どうしたら自然なかたちで関わりを保てると思いますか。
そういうお気持ちが嬉しいですし、輪島の製品を買ってくださったり、遊びに来てくださるのもありがたいです。「震災を忘れないで」とは言っても難しいと思うんです。私たちは時々東京や大阪に行く機会があるんですけど、行って数時間でそこの場所の空気に感化されてすっかり忘れるんです。スマホの画面越しに能登や輪島を見ていると、すごく遠く感じられる瞬間もあります。離れていれば忘れて当然だと思いますし、たまに能登とか輪島と聞いたときに「そういえば地震があって大変だったね」と思い出すぐらいでも十分だと思っています。
今回、地震後も変わらずにお付き合いいただいているお客様やお取引様との関係がとてもありがたいなと感じています。お店などは数ヶ月間も空くと他の商品を入れたりするものですが、気にかけて変わらずに取り扱いしてくださる、その気持ちが心の支えになっています。もちろんこれを機にお付き合いしてくださるのも嬉しいです。お互いに、今ある関係をこれからも続けていくことが本当に大事だと感じています。それが結果的に忘れないことにもつながっていくとしたらいいですね。