時刻は午前4時49分。この原稿を書いている時刻です。「執筆のために早起きしました」なんていえれば格好がつくのですが、執筆に着手したのは昨夜22時。パソコンを開いたものの、キーボードを打つ私の指は思うほど軽快には動いてくれませんでした。
そうなると、先延ばしによくある現実逃避行為のオンパレードです。普段しないジャム作りにはじまり、ネット記事の読み漁りや、深夜のおやつモグモグタイム。ひとつ終わるたび「気分転換もしたことだし、そろそろ書けるんじゃない?」と根拠のない淡い期待を抱いてパソコンに向かえど、成果はなし。こうして7時間も浪費してしまいました。この手の話は執筆に限らず、よくあるのではないでしょうか?
探しているのは誰の答え?
さすがに朝5時を目前にした私の頭は軽く朦朧とし、これ以上の先延ばしは許されないと悟ったとき、気づいたのです。質問がズレているから筆が進まないのだと。執筆する際、私の頭には「なにを書こうかな?」「どう書いたらいいかな?」という質問ともいい難い考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えしていました。そのたび、思考も書く手もピタッと硬直するのです。
このような問いかけでは、自分の内側からほとばしるように言葉が走り出すわけがありません。これらの問いには「自分はどうしたいか?」という自分自身の望みや願いは含まれていませんから。一般的な正解や模範解答を外に求めるニュアンスが強く、それによって引き出される答えには、執筆の原動力となるだけの熱量が含まれるわけがありません。どうりで私の筆も一向に走らなかったわけです。
やる気も能力もあるのに、一人相撲でもとっているかのように動けなくなり、独りで「ウンウン」唸っている。もしそんな状態に陥ったら、自分の頭のなかの声に耳を傾けてみませんか。「どうすればいいのだろう?」と無意識で考えていることが多いです。残念ながらこの質問は、自分の力や思いを引き出すどころか、栓をして使えなくするので、どうぞご用心を。
「どうしたい」で流れ出す
「なに」や「どのように」に関する模範解答や誰かの正解を探るよりも、私がこの原稿を書くために必要だったのは、「自分はどうしたいのか?」というシンプルな質問でした。パソコンを開くよりも遥か前に、まず紙とペンを用意し、目を閉じて「自分はどうしたいのか?」と自分に問いかける。たった5分。その時間をとり自分と対話していたならば、私は7時間も費やさずに済んだでしょう。でも、この7時間は無駄ではありません。なぜなら、ここに書いたとおり、この体験のおかげで、生涯活かせる学びを自ら手繰り寄せることができたのですから。
朝5時、私は自分に問いかけました。このページを執筆するにあたり「私はどうしたいのか?」と。すると「待ってました!」といわんばかりに内側から「こうしたい!」が一気に溢れ出し、ペンを通して言葉になりました。
『私は役立つものにしたい。いっときの清涼剤よりも、よくわからず馴染みのない、だけども気になる異国のお菓子にしたい。一度口にしただけではわからないけれど、その奥になにがあるか知りたくなる。もう一度食べずにはいられない、噛むうちにクセになるスルメのような魅惑的な異国のお菓子。わかりやすくも、具体的でもない。実践的でもない。こうしたら良いという提案でも教えでもない。その人のなかにあるなにかを呼び起こす。喚起の手紙。この1600字であなたと出会い、そんな関わりがしたい』
こう書き終わるとすぐさま、私の指はこの原稿を打ちはじめました。最初から、ずうっと前から私のなかにあったかのように。「どうしたいか?」と問えば、誰にでも答えがあるように。