この一年以上、私は個別の連絡以外のSNSを見ないようにしています。年々、インターネット上、とくにSNSで流れる、なんの根拠も裏付けもない陰謀論や、ヘイトを煽るような投稿によって、心が引き裂かれるような感情になってしまうからです。いつも私が食や生活環境について言及するとき、誰にでもわかりやすく「食には人や動物に力を与える食と、人や動物から力を奪う食べ物があります」と説明することがあります。実際に、身体を使って実験すると、食べ物Aは持ったり食べたりするだけで筋力が強くなり、食べ物Bは逆に筋力が低下する現象が確認できます。住環境や電子デバイスでも同じことがいえ、程度には差がありますが、力を与えるものと奪うものという尺度で世界を観察すれば、自分がなにに近づき、なにから離れるべきかを知ることができます。
このように仕分けをした場合、根も葉もない陰謀論やヘイトを煽るやり方は、まず読み手に恐怖や怒りなどの強い負の感情を抱かせて力を奪い、その恐怖ゆえに読み手は心身の安全を取り戻そうと保身に走るため、周囲に対して攻撃的な態度を取ることになります。直接対面でこのような態度を取ることは通常の感覚では難しいのですが、誰でも簡単に指先ひとつで過激な言葉を並べられるSNSでは、読み手を煽ることはとても簡単にできます。その結果、あっという間にネガティブな感情の連鎖が起きてしまうのです。
さて、そんな私が、個別に届いたメッセージに返信するため、あるSNSのページを開きました。可能な限り投稿を読まないようにしている私の目に、ある美容整形医師の投稿が飛び込んできました。これまでこの医師の投稿から力を与えられたことはなく、読むだけで疲労困憊するほど力を奪われるものでしたので、読まない方がいいと思ったのですが、今回はまさに私が攻撃対象になっているように思える内容だったため、ざっと読んでしまいました。その投稿には、「生活保護を受けている人間は、まったく働きもせず、医療費もタダで、いい収入を得て、怠けて悠々自適に暮らしているのは許しがたい」「自分は一生懸命努力して医師になり、医院を経営し、飲食店まで経営しているが、経営はいつも赤字だ。これだけ努力している私が赤字なのに、生活保護受給者はなんの努力もせずにいい暮らしをしているのは許せない」「こういうことを許さない、○○党しか日本を救えない」といった趣旨のことが書かれていました。
生活保護受給者は悪?
私は高校生の途中から生活保護を受け、国に育てていただきました。母子家庭に生まれ、祖母が私の父母のような存在でした。その祖母は、世帯に収入がないため、私が小学校高学年になり78歳になるまで、病院での付き添い家政婦として泊まり込みで24時間働きに出て、たまに帰ってくる生活をしていました。しばらく仕事がなく家にいた祖母が、お腹を抱えて唸り声を上げながらうずくまっている姿を発見した小学生の私は、友達と一緒に祖母を病院に運び込みました。その後、祖母は他界し、私は養母に育てられることになりますが、その養母も祖母と同じ仕事をしてぎりぎりの生活を続けていました。ある日、彼女が泊まり込んでいる病院から連絡があり、病院で倒れたというのです。診察の結果は、祖母と同じ末期の大腸ガンでした。私は当時中学3年生で、他に身寄りもいなかったため、生活保護を受給することになりました。それは高校を卒業するまで続きましたが、生活保護を受給しながら大学進学はできない制度であり、重病人を抱えながら介護も仕事もして学校に行くことは不可能だったため、就職する道を選びました。つまり、私は3年半ほど生活保護で生かしていただいたのです。
その後、私はプレマ株式会社を創業し、もう26年が経過します。この間に、会社や個人、スタッフ雇用などを通じて負担してきた納税額は何億円にも及びますが、これは若かったころに国にお世話になった恩返しだと信じ、しっかり納税してきました。
先の医師の見解によれば、私や祖母、養母はなまけ者であり、さしたる努力もせず、起業した会社が黒字なのも許しがたいことになるので、選挙で特定の政党に投票して、このような制度の恩恵を受けている人々は制裁しなければならない、ということになります。確かに、生活保護受給者は国の世話になっているのだから堂々と胸を張るのはおかしいという気持ちも、わからないではありません。私も生活保護受給者だからと特権的なことを要求したことは、当時も今もありません。しかし、この医師がいうように、自分は努力しても事業は赤字で、その原因が生活保護受給者にあるかのような見方は、まったく正しいとはいえず、短絡的です。生活保護の受給権は基本的人権に基づく権利のひとつであり、最近では基本的人権そのものが愛国的ではないとする筋違いの言説も広がっています。これは世界的な潮流でもありますが、誰かを悪者と決めつけたところで、なにも問題は解決しません。
この出来事を通じて、私は子どもにこう伝えました。「これから君はいろいろなことをさらに学ぶだろう。お父さんはそのためにお金を払うことは厭わない。ただ、人が学びを深めるということは、より弱い立場の人を思いやり、支え合うための知恵を出す寛容さを養うためであって、弱い人を叩くためではない。もし知識や立場をひけらかして弱い人を攻撃するようなことがあるのなら、すぐに学校をやめてもらう」。人が愛に立脚する寛容さを失ったとき、残るのは憎しみをバネにした勝者のいない不毛な戦いだけなのです。