2月になると、「もう1ヶ月も経ったのか、早いねぇ」という声が聞こえてきます。今年は始まったばかりで、まだ11ヶ月も残っているのに「早い」と結論づけてしまうのはもったいない気がします。
水が入っているコップを前にして考えてみます。「半分入っている」と「半分空いている」というのでは、意味はまったく違うものになります。自分の解釈ひとつで、量的には同じでも、質的にはどうにでもなると考えられます。
コップの空いているスペースを「過ぎた時間」、入っている水を「残りの時間」と考えても良いでしょう。「1ヶ月も過ぎた」のか、「11ヶ月も残っている」のか。その意識が変われば、春の迎え方にも違いが出そうです。
後天的ガン家系の呪縛
「わたし」という人間は、これまでに起こった「事実」だけで成り立っているのではありません。むしろ「その事実とどう関わってきたか」が、その人間を構成するうえでは大きく影響しています。
たとえば「自分はダメな人間だ」という人がいて、もしも半分は事実だとしても、あと半分は自分で決めたこと。運命の影響力は半分までとして、それを「全部」にしてしまうのは自分自身なのです。
ときどき「ガン家系」と聞きます。家族や親類にガン患者が多いことと、自分が病気になることとは分けて考えるべきです。私なりに「先天的ガン家系」と「後天的ガン家系」に切り離すようにしています。「先天的ガン家系」とは、まさに遺伝的な体質によるもので、多くの人はこれが原因と考えているようです。一方の「後天的ガン家系」とは、食生活や生活習慣によって積み重なったものを指します。家族がともに生活していれば、同じものを食べ、味の好みも似てきます。夜は遅くまで起きているか、朝は早く起きるかなどの生活習慣も似てきます。やがては行動パターンや、モノの考え方だって似てくるはずです。このようにクセづいた習慣の積み重ねによって体質が似てくることで病気の傾向も似るのは「後天的ガン家系」と呼べるでしょう。
ここまでお話しして、「だけど父親の兄弟も……、母親の親戚にも……」と返ってくるなら、自分の意志で「ガン家系」を「全部」に仕上げてしまっている。かたや「自分の心掛け一つで防げるのかも」と思い始めた人は、「ガン家系」の呪縛から解き放たれている。自分の思い込みで結論づけてしまわないようにしたいものです。
春の受験シーズンでも同じことがいえます。もし第一志望に合格かなわず、第二志望に進むことになって、その事実は同じでも、自分の意志で変わるものはあります。「ここ(第二志望)しか受からなかったから」と下を向くのも自分。「第一志望を目指してがんばったから」と胸を張るのも自分。「第二志望に導かれたのだから、ここでがんばろう」と思えるのも自分。考えひとつで、春の迎え方に差が出てくると思いませんか。
解釈ひとつ
禅の言葉に「壽山満瑞気」とあります。寿の山は瑞々しい気に満ちている。寿山とは寿命で、生命は瑞々しいエネルギーに満ち溢れているということです。
室町時代の禅僧・一休宗純は「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と歌に詠んでいます。正月の門松はめでたいとされているが、門松を飾るたびに一つずつ年を取り、それだけ冥土に近づき、冥土への旅の一里塚のようなもので、めでたくもあり、めでたくもなし。ひとつ年を重ねることは死に近づくことではあるが、一方でその年も命をいただけた、また生かされたのだと受け止めれば有り難くおめでたいこととなります。
すべては解釈ひとつ。良いほうに受け取り、より良く生きたいものですね。
