私はこれまで、このコラムで、さまざまなテーマを取り上げてきました。
例えば、憲法で保障された表現の自由のこと。また、行政法に関する制度のこと。あるときは、子どもや障害者の権利に関わること。そして、ときには、ダンサーとしての活動についても、取り上げてきました。
振り返ってみると、取り上げてきたテーマには一貫性がないようにも思える一方、執筆時に自分が取り組んでいた活動や、関心を持っていた分野のことを、その都度取り上げてきたように思います。
そして今回、ご紹介しようと思った裁判例がありました。そこで、その裁判例に関する資料を図書館で揃えて喫茶店に入り、意気揚々と執筆に取りかかろうとした、そのとき、鞄を開いてみると、資料が見当たらないのです!
空っぽの鞄の中を見つめたまま記憶を辿ること数秒。私は、大切な資料を鞄に入れ忘れたまま図書館を出てきたことに、気がついたのです。
顔を歪めて仰天しても、時すでに遅し。気づいた時点で、すでに図書館の閉館時間は過ぎており、明日はそもそも閉館日。
さて、どうするか。
本番の日の忘れ物
軽い絶望感に襲われながら、次善の策を検討しているうちに、私はふと、最近、同じような感覚を抱かされたできごとがあったことを、思い出しました。それは、ちょうど1か月ほど前の舞台の日のことでした。
私は、出演するダンスの舞台の一場面で、ちょっとした小物を使うつもりでした。
そして本番の日、衣装をはじめ必要なものを携えて家を出た後、会場に向かうバスの中でその日の踊りをイメージしていたとき、気がついたのです。舞台で使用する予定にしていた小物を、家に忘れてきたことに。
リハーサルの開始時間は迫ってきており、小物を取りに帰るとリハーサルに遅刻してしまいます。遅刻すれば、他の出演者やスタッフに多大な迷惑をかけることになるため、引き返すことはできません。
そうです。このときも、私は軽い絶望感に襲われたのです。
そして、軽い絶望感に襲われながら、このコラムを執筆している現在と同じように、急いで次善の策の検討を開始しました。そして、バスに揺られながら頭の中で必死にイメージをするうちに、実は忘れてきた小物を使う必要がないこと、むしろ、小物を使わず身体そのものを見せるほうが良い場面となるに違いないことに、思い至ったのです。つまり、次善の策を検討するうちに、「最善の策」に辿り着いたわけです。
もしかしたら、このように言えるのかもしれません。大切な舞台であるにも関わらず忘れてきてしまうようなものは、そもそも、それほど重要なものではないのだ、と。
忘れることの意味と効用
さて、今回のこと。図書館に資料を忘れてきたことから急遽生まれたこのコラムは、1か月前の舞台のときと同じように、まさに忘れ物のおかげで、「最善の策」へと躍り出ることができたでしょうか。
今回もまた、「忘れてきてしまうようなものは、そもそも、それほど重要なものではないのだ」と言えるのでしょうか。
その点は明らかではありませんが、少なくとも、今回、事前にまったく想定していなかった内容のコラムが生まれたことは確かです。
2回の忘れ物は、単に私の間抜けさを痛感させるだけでなく、忘れることの意外な意味と効用を、私に教えてくれました。おかげで、忘れ物をすることが、少し楽しみになったかも。