前号では、台湾糖業博物館、旗山製糖工場跡、国立台湾博物館を訪問して感じたことや、1895年に台湾統治を始めた日本が近代技術や人材、資金を投入して製糖業の礎を築いたことについて書きました。それらはすべて日本の国益を目的とした植民地政策の一環でした。
台湾で日本の台湾統治が始まり、砂糖の生産量や生産性が格段に向上したものの製糖業は農家には歓迎されませんでした。なぜなら、農家が生産したサトウキビは、製糖会社が一括で買い取りする制度が敷かれて、農家には価格決定権がなかったからです。製糖会社は農家たちに不当に低い価格しか支払わず、農家たちは生活に窮困していました。「製糖会社のためにサトウキビを栽培するのは愚か者のすることだ」という台湾の有名な諺から、当時の状況が見て取れます。1925年には待遇改善を求めるサトウキビ農家らによる製糖会社の施設を襲撃した二林事件が勃発し、その後、農民運動が活発化しました。
日本では1937年の日中戦争の勃発により石油などの戦略物資が不足し始めました。さらにアメリカなどからの経済封鎖による石油輸出規制が重なり、日本はエネルギー資源を自給自足する必要に迫られていました。そんななか、石油の代わりに製糖の副産物である糖蜜を発酵し、蒸留させてつくるバイオエタノールの製造が始まりました。2004年度から2011年度まで、宮古島でもバイオエタノールを製造する実証実験が実施されましたが、製造コストなどの課題を抱えて事業化には至りませんでした。それを考えると、日中戦争当時の日本が相当に追い詰められていた様子が伺われます。
太平洋戦争中、台湾の製糖工場も攻撃目標とされ、34もの工場が爆破されました。日本の台湾統治終了後、翌年には損壊した製糖工場の復旧が始められました。その後、品種改良やサトウキビを効率的に収穫するハーベスターの導入を始め、1980年代には世界のトップ10に入る生産地に躍進しました。
今回の台湾訪問で、侵略戦争の愚かさや民衆のたくましさを実感しました。
サトウキビ運搬用の列車