子育てについて相談されることが増えました。こちらから尋ねるのは、「きちんと叱れますか」ということ。すると、だいたい「夫が(妻が)叱ってくれないから、私一人が嫌われ者になる」というような言葉が返ってきて、ことの本質は子育てではなくて、夫婦関係での意見の相違だなということも少なくありません。
「叱る」は「然る」に通じ、人としてあるべき姿に導くものだと考えています。だからといって怒鳴りつけるのではなく、「ダメなときはダメ」と諭すことで、ものの道理を教えて理解させることが大切だろうと思います。子育てでは、夫婦のどちらかが叱ればいいわけで、二人が揃って叱る必要はないでしょう。
同じではない役割
かつて子育てでは、母親からは優しさを、父親からは厳しさを教わってきたものでした。母親は情緒的で家庭的な「個」の幸せを願い、父親は論理的で社会性の「公」の正しさを伝えたものでした。時代とともに子育ても変わってきて、さらには一人でなにもかもを抱えて大変なケースも増えてきて、この限りではなくなってきたでしょう。
立場が違えば役割も異なるのは、子育てにおける夫婦関係だけではありません。人がだれかと力を合わせてなにかをやるときには共通するものがあるのではないかと思います。
ともに仕事をし、もしもその結果が力不足で失敗に終わったとしても、また次も一緒にやろうと思えるかどうか。なにもしなかった人とは、その次はないでしょう。力を尽くした先での失敗から学ぶことはあっても、なにもしないことから成長が得られることはありません。大切なのは、それぞれ自分の役割のなかで真剣に力を尽くし合えたかということです。
役割の違う者同士が力を合わせることをもう少し考えてみます。「陰陽論」を応用した料理法に、「重ね煮」という手法があります。野菜の陰陽としては、上に向かって伸びる葉野菜は、体を緩めて冷やす「陰性」。下に向かって伸びる根菜類は、体を引き締め温める「陽性」と考えます。重ね煮では一つのお鍋に、葉野菜を下に、根菜類を上に重ねます。これに火を加えていくと、上に向かう力と、下に下がろうとする力が鍋の中で働き、お互い影響し合って調和のとれた料理としてできあがります。葉野菜も根菜もどちらもが同じような向きの働きをしていては、こうはいきません。それぞれ違う方向性のエネルギーを持ち、違う役割があるからこそ、一つに合わさったときに美味しいものにできあがるのです。
なにかをするうえで、ともに同じである必要はありません。むしろ違うからこそ、偏ることなく、可能性を広げていけるのではないでしょうか。
自分の正解を他人に押しつける人がいます。「正解なんてない」という、その人なりの正解を押しつけてくる人もいます。どちらも結局やっていることは同じ。同じであるべきだと、同じことをやっている。同じである必要はなく、それでもともに力を合わせてできることはあるはずです。
自然のつながり
禅の言葉に、「青山白雲」とあります。青々として動かない山と、自在に姿を変えていく白い雲。二つが対立することなく、支え合って存在しているということ。自然界では対立して存在しているものはなにもなく、すべてのものがお互いに支え合うことで存在しています。
山としてのあり方と、その山を映えさせる雲の動き。だれかがいて、自分がいる。あなたがいて、私がいる。人と人とのつながりもそうありたいものです。