人は、自分が見たいように景色を見ているものです。
治療院の受付横のカレンダーには、臨時休診の印をつけています。それを見た患者さんとの、ある日の会話から。「来月は休んでばっかりなんやねぇ」。講座が続いてしまうので、申し訳ない。「そんなに続けて勉強するものなの」。ご依頼が重なってしまったので、仕方なくですわ。「えっ、講座って受講でなく、講師の側? 先生って、実は偉い先生だったの……」。
こうして、怠け者扱いされそうになったあと、わずか数分の会話のなかで、勉強熱心な人から偉い先生へと変わってしまいました。カレンダーに印のある日は留守にしている事実はなにも変わらないのに、不思議なものです。
思い込みを外す
同じ景色を見ているようでも、見ているものは異なります。列車の車窓からの眺めにしても、建物を見ていたり、海を見ていたり、空の色を見ていたり、それぞれが異なるものを見ているのです。そんななかで、「さっきの色、見た?」と尋ねてみたら、「あぁ、あのビルの色、変わってたよね」なんて、お互いが共通して同じ「点」を見ていたことがわかって嬉しくなったりします。
芸術作品でも同様で、一枚の絵を「すごいね」と表現しても、構図のことか、色彩か、筆遣いか、違うところであることもあります。せめて作品を観ていくときの歩を進めるペースが同じであれば、気が合う相手ということかもしれません。相手に合わせようとして無理をするのではなく、自然とそうなっていると嬉しいものです。
同じ全体を見る、同じ部分に気づく、同じように感じる。それぞれまったく異なるのに、同じものを見ているからと、つい同じように相手も感じているだろうと思い込んでしまう。この思い込みのせいで、相手を責めたり、自分が苦しんだりしてしまうこともあるかもしれません。思い込みを外せば楽になることはありそうです。
ひとつの芸術作品に、有名な学者さんによる解説がされていたとして、それを見た人まで同じように感じることを強制されるものでもないでしょう。その解説が、作者の意図と異なっていることもあるわけです。
人工的な建造物であれば、どう見られるかより、造られ方や使われ方といった機能面や、材質などの条件から導かれた姿。きれいだとか、立派だとか、そうした見え方は結果であって、目的ではないということになります。
見たいように見ればいいし、感じたいように感じればいい。そういうものだと、あるがままを認めていたいものです。
病気やケガの診断に用いられる画像でも同様です。レントゲンにしろMRIにしろ、一枚の画像から病変を見抜くのは一人の医師の技量によります。別の目を求めてセカンドオピニオンを受けるのは当然の権利といえるでしょう。
春を感じてみる
自然界には、はからいはありません。花は、人から美しいと認められたくて咲くのではないのです。そこに美しさを見つける人の心が勝手に認めるものです。
禅の言葉に「自然有春意」とあります。冬から春へと向かう季節の自然のなかには、春の気配が現れてくるということです。まぶしさが強くなってくる陽の光、花のつぼみの膨らみ、春へと向かう空気を感じることで、自分が生かされていることを自覚する。また春を迎えることができる、一年を無事に過ごせた有難さに感謝の心が沸いてきます。
天気の良い日の早朝に外を歩いて、自分なりの季節の移ろいを感じてみると良さそうですね。