原発事故以降、私たち日本人には古くて新しい「問い」が投げかけられています。一つの例をあげましょう。内部被爆の指標となる食品中の放射線量に関して、疫学的な、もしくは統計学的な答えは『危険と安全のあいだに、閾値(しきいち)は存在しない』という事実です。つまり、○Bq/Kg(ベクレル・パー・キログラム)以上であれば危険で、それより下であれば安全、という明確なラインは存在していないということです。さらに問題を難しくしているのが、日本で検出される放射線や放射性物質が福島第一原発で発生した事故によるものだけではないことが明らかになってきたことです。もともと自然界に存在している放射性カリウム40はもちろん、過去に行われた核実験や発生した原発事故、安全に管理・運転されてきたはずの原発や各施設からの漏洩の疑いから、工業または医療に用いられてきた放射性物質まで、事故発生以前からも存在していたであろう要因が次々と明らかになってきました。今となっては、何が原因で「○Bq/Kg」と検出されているのかが全くわからなくなってしまい、原発事故だけのせいにはできなくなってきたという事情があります。事故発生後は言うに及ばず、私たち日本人は、放射性物質と無縁で生きていくことはできず、さらに過去においても無縁で生きてきたわけではなかったという真実を知っていくことになります。
このような明確なラインや原因が特定できない事柄は、実のところ私たちの身の回りにあふれています。今回の原発事故の加害者は誰であったのかということはもちろん、ゼロBq/Kgが確認された農薬や食品添加物漬け慣行農法の給食が安全なのか、30Bq/Kgの無農薬で天然調味料を用いたそれが良いのか……例を挙げればきりがないほど、白黒のつけがたい出来事は溢れかえっています。このように明確な答えがそもそも存在していない事柄に答えを出すことのできるのは、私たち自身の判断ということになるわけですが、往々にして私たちはその判断を人任せにしてしまうことに慣れてしまったきらいがあります。そのうえ、現代は情報だけはインターネットからいくらでも引き出せる環境にあります。できる限り客観性を保とうとして多くの情報に触れれば触れるほど、全く相反する見解ばかりがあることに気づき、答えを出すどころかかえって混乱してしまい、混乱した自分にいらだち、違う見解に腹立ち、ストレスだけが残ってしまう……。ほんとうに多くの人がこのような状態に陥ってしまい、残ったストレスが自分の心身を傷つけ、周りも巻き込んでしまっているという、最も大切なことに気づかずにいるような気がしてならないのです。
この悪循環の根を断ち切る方法はたった一つしかありません。それは「この問いには、絶対的な答えが存在しないのだ」という事実に向かい合うこと、もっと別の言い方をするならば、「覚悟をもつ」ということではないかと私は考えています。五木寛之氏は著作のなかで、「あきらめる」という言葉を使いました。「あきらめる」は、通常用いられる「諦める」というよりも、「明らめる」のほうが適切ではないかと指摘しています。事実に向かい合い、その事実が決して自分にとって心地よいことでないとしても、それをそれとして明らかにしておくこと。無理矢理に答えを出そうとして情報の渦の中で自分を見失ったり、誰かのせいにしておいたりすることで、とりあえずの「答え」に安住しないこと。今私たちに求められている覚悟は、このようなものではないでしょうか。
ほんとうのところ、絶対的な矛盾というのは常に存在しています。矛盾があることや、白黒つけられないことは良くないことだという気持ちは、いつから私たちに巣くってしまったのでしょうか。あらゆることは、流転し、変化しているという宇宙的で絶対的な事実をまえに、それでは何も決められないからと「とりあえずの答え」を出し、それがずっと続くといつの間にか信じてしまったことから、すべての悲しみや苦しみが生まれています。より確実さを求めれば求めるほど、その苦悩は深くなり、苦悩は自らだけでなく、周りすらも悲しみの渦に巻き込んでしまうのです。
『悲観も楽観もせず、ただ事実と向かい合うこと』ー福島という存在が、私たちに教えてくれた最大の気づきだと私は考えています。誰かをとりあえずの敵にすることなく、私たち全てに向けられた「問い自身」を生きていこうではありませんか。