私が小学生のころ、毎年節分になると体育会系の教師が鬼に扮していた。子どもたちが教室のあらゆるところに隠れて逃げ回るという、今思い返すと少し面白い取り組みであった。秋田の男鹿半島に伝わる「なまはげ」に近い雰囲気かもしれない。なまはげは災いを祓う神で鬼ではないが、子どもを怖がらせる行為は共通している。神様や鬼が子どもを驚かせて怖がらせるという体験のなかにこそ、学べるものがあったのではないかと今になってふと考えている。
なまはげは子どもにとって最も怖い存在になるという。「親の言うことを聞かないと怖い目に遭うぞ」という教訓であり、秋田では「悪いことをするとなまはげにくれてやってしまうぞ」と子どもに言い聞かせてしつけをすることもあるようだ。おそらく、私が経験した節分の鬼にも同じような思いが込められていたのだろう。ハラスメントが危惧される昨今では、こうした行事は許されにくいのかもしれない。しかし何十年もたった今でも、節分に鬼に追い回された記憶は、怖さと楽しさが混ざり合った忘れがたいものになっている。
その土地に伝わる文化は、自分自身の心の拠り所として自分を守ってくれているのかもしれない。幼少期の自分がどのように過ごしていたかは、大人になって精神的な困難さを感じるときに、心を楽にするヒントや立ち戻るべき場所を教えてくれている気がしている。
立春は、冬から春へと季節が変わる日だ。古来、季節の変わり目は、予期せぬ出来事に見舞われやすい時期と言われてきた。そこで立春の前日に悪いものを追いやり、幸運が舞い込むようにとの願いから、節分の行事がおこなわれるようになった。旧暦では立春が新年であったため、節分は大晦日のように一年の邪気を払い、無病息災を願う大切な行事なのである。
豆まきや恵方巻の風習もその流れにある。ちなみに今年の恵方は、南南東で、南から少しだけ東の方向だ。「豆を炒る」が「魔目を射る」に通じることから、炒った豆は縁起が良いとされる。悪い象徴の鬼に豆をぶつけるイメージだが、かつては病気や不幸といった災いを招くのが鬼だと考えられており、豆は鬼退治というよりも、邪気を払う目的でまかれていたようだ。また、自分自身の内に存在する邪悪な心を外に追いやり、心のなかをやさしさや愛で満たす意味合いもあったのではないだろうか。自分と違うものを排除しようという機運がある昨今だが、自らの心を愛で満たすことを思い出す日として節分を過ごしたい。
東洋医学では、冬は生命力の源である「腎、膀胱」の季節といわれている。本来、熊が冬眠するように活動量を減らし、寒さや過労で元気を漏らさないように過ごすことが、春に元気でいられる秘訣だ。そうはいっても人は年末年始に無理に仕事を片付けたり、行事を盛り込んで忙しく過ごしてしまいがちである。また正月は普段より動かず食べすぎるため、胃腸の乱れが起こりやすくなる。そこに厳しい寒さが重なるので、弱った身体はウイルスや細菌に負けやすくなってしまう。七草粥で胃腸の疲れを癒そうとしてきた先人の知恵には、改めて感謝の念がわいてくる。
また、冬はとにかく寝ることを優先して良い時期なのだ。熟睡できずとも、たとえ長く眠れずとも、毎日早く横になって休むことが助けになる。眠れないことに不安を感じるかもしれないが、昼間に十分程度でも昼寝ができるならそれも良いだろう。腰部にある「腎兪」というツボのあたりを、冷えないように温める工夫も効果的だ。昔ながらの湯たんぽは、冷え症の人には特におすすめである。冬眠するくらいの感覚で過ごすことが、春から始まる新季節に向けた力になるだろう。長く寝ることにとらわれず、早く横になって腎臓を労わる気持ちで、早寝の習慣を身につけていきたい。
