きのくに子どもの村通信より 自由学校の気になる子ども(1)
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
元気な子どもたち
子どもの村へ見学にみえる人は、みな一様に言われます。
「子どもたちがすごく元気だ」
「目が輝いている」
「忙しく活動的だ」
「質問にきちんと答える」
「大人にたよらない」等々。
かつやまの場合も同じです。たしかに学園の子どもたちは元気で自発的です。気持ちのいい子ばかりです。「この学校の先生に嫉妬を感じる」という現職の先生さえあります。
しかしごく少数ですが「気になる子」はいます。普段は何もない子でも「気になる時期」があります。今回のシリーズでは、なるべく具体的に考えて見ましょう。ただし特定の子どもではなくて、気になる子の行動をパターン化して取り上げ、その原因や対処法について考えてます。
問題の子は不幸な子
ニイルは『問題の子』の中で次のようにいっています。
「困った子とは、実は不幸な子である。かれは内心において自分自身とたたかっている。その結果、外界とたたかう。」
困った子(difficult child)とは、さまざまな問題行動を示す子どもです。ものを壊す。ウソをつく。弱い者いじめをする。盗みが続く。白昼夢に逃避する。こういう子が、開校当初のサマーヒルにはたくさんいました。
当時の常識では、彼らは悪い子であり、きびしく矯正されなくてはいけない子です。現代でもほとんどの人は、そう思っているでしょう。しかしニイルは、その頃の新しい心理学、つまりフロイトの精神分析の理論を参考にして、独創的な教育観を打ち立てました。
フロイトは、人間の言動を大きく左右する無意識のはたらきを発見し、下の様に図式化して、さまざまな心理的障害の原因を説明しました。イドというのは、本能や生命力など生まれつきのはたらきです。快楽原則に従って、願望を充足しようとします。自我は意識のはたらきで、現実原則に従って本能や生命力を規制します。超自我は、親や社会からのきびしい躾や道徳教育が内面化され、無意識の中で本能のはたらきをコントロールします。困った心理的症状は、この超自我と本能的な力との葛藤や、それが奥深くにわだかまったコンプレックス(心的錯綜)から生じるといいます。
自由な学校で超自我の再形成
困った行動を示す子は、無意識の奥深くで、本人も気付かない罪の意識や自己否定感に悩んでいます。力や脅しを背景にした躾が、本能的な願望や自然な興味と衝突し、内面の平安が失われています。こういう子を責め立てたり説得したりすると、かえって問題をこじらせてしまうでしょう。罰はもちろん逆効果になります。
盗癖の子や、ものを壊す子は、熱のある子やおなかの痛い子と同じで、実はかわいそうです。発熱や腹痛を罰する事はありません。彼に必要なのは安静と心のこもった世話です。ニイルが盗みをはたらく子に小遣いをあげ、暴れる子と共に窓ガラスを割ったのはこの理由からです。
校長がニワトリ泥棒
ニイルは、盗癖の続く子と一緒に隣にニワトリを盗みに入ったことがあります。この子の無意識で睨みをきかせている「強くて怖い父」のイメージから解放するためです。校長先生だって、僕と同じ普通の人間だと感じさせ、内心の父親の影を薄くしようとしたのです。
ニイルは、心理治療によって子どもを無意識の葛藤や罪障感から開放しただけではありません。サマーヒルという自由で民主的な共同体での生活を通して、子どもたちが既存の超自我の力を弱め、自分自身の良心を新しく作りなおすのを援助しようとしたのです。
大人も子どもも同じ
ニイルは「困った子とは…」の後に「困った大人も同じ船に乗っている」と続けています。大人や社会から与えられた超自我に囚われているのは大人も同じです。自己否定感を秘めた大人は、自分が好きになりにくいし、あるがままの子どもを肯定するのも容易ではないでしょう。「もうちょっと、もう少し」と際限なく要求を出し続け、子どもの自己否定感をより強くより深くしかねません。
自分は自由だ。古い道徳や既成の価値観に囚われていない。こう言い切れる人は、めったにいないはずです。たとえば昔話の冒頭の部分を思い出してください。「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが…」という出だしを何の疑いもなく受け入れ、子どもに伝えておられるでしょう。「おばあさんとおじいさんが…」という人は、まずありません。
いつの間にか植え付けられた価値観や感じ方に気付く。これは、親と教師にとって、とても大切で、しかも有益なことだと思います。