春の入学式に間に合うようにと、手縫いでランドセルをつくってあげていたお母さんがおられます。手間や労力はもちろん、愛情のかけ方もすごいなと感心していたのですが、周りの一部のお母さんからは「変わってるね」と言われたとか。なんだか戸惑ってしまいました。
変わるもの、変わらないもの
100年前であればみんな当たり前だったことが、50年前では半数くらいに減り、数十年前なら「偉いね」と言われたようなことも、現代では「変わってるね」となる。時代によって変わっていく価値観とはそういうものなのかもしれません。
忙しい現代では「時短レシピ」に代表されるように、なんでも効率が求められるようになりました。時間やお金のかけ方も、さらに変わっていくのかもしれません。忙しいなかでの子育てでは、「お母さんの時間のため」と、時間の使い方も変わってきているようです。
先日ある患者さんから聞いた話で、「お母さんが休むため」と夜泣きする赤ちゃんと別室で寝ることをすすめる治療院があるようです。どう思うか尋ねられましたが、正直なところ「わからない」としか言えませんでした。
妻とも話しましたが、自分たちの立場だったら泣く子を置き去りはできないし、むしろ余計に休めないねとの考えで一致しました。自分たちが不安を抱えていたら、子どもはきっともっと怖いだろうとも思います。
「お母さんが休むため」に必要との考えは理解できます。そうはいっても、それであまりにも安易な手段を取り入れるのはどうかと思うのです。休むためにか、時間のための効率か、楽をするためかを混同せずに、子ども第一に考えるようにはしておきたいところです。
まずは「やらなければいけない」と義務に感じるのではなく、してあげたいと思うことをできればいいのでしょう。先のランドセルを手縫いしておられたお母さんにしても、他人から「スゴイね」と言われるためにやっているわけではなく、自分がお子さんにしてあげたいと思うことをしてあげているだけに過ぎないのです。
私の治療院で相談に来られた親御さんには「とにかくお子さんの体を擦ってあげて」と伝えています。夜泣きであれ、アレルギーであれ、親の子に対する態度としては変わることなく、愛情をもって体に触れてあげてほしいのです。「擦」るとは、「手」が「察」すると書くように、親の擦る手からお子さんの発熱や皮膚の乾燥などの異変を感じ取ることもできます。また「手」が離れると「察」するとなるように、成長した先で他人を思い遣れる子になってくれるとも考えています。
乳児期には、肌を離さず。幼児期には、手を離さず。少年期には、目を離さず。青年期には、心を離さず。この「子育て四訓」は時代が移ろうとも変わらないものであってほしいですね。
変わるもの、変わらないもの
禅の言葉に「薫習」とあります。習いの薫りと書いて、体から滲み出てくる思想や立ち居振る舞いのこと。お香を焚くと香りが衣服に染み込む「移り香」のように、教えもまた知らず知らずに香りのように身体に染み込んでいくという教えです。
師弟関係のように手本となる人に長年ついていると、知らぬ間にそのふるまいや、ものの考え方が染みついていく。親子関係でいえば、子どもの手本はいちばん身近にいる親なので、親が手をかければかけただけそのように育つし、手を抜けばまたそのように育っていくものかもしれません。常に自分の発言や立ち居振る舞いを律することは、子どもにそれが伝わっていくといえるでしょう。
子育てとは、その「やり方」にとらわれるのではなく、親としての「あり方」が問われるものなのでしょう。