きのくに子どもの村通信より
教育学の論点(5)
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
よく学び、よく遊べ
遊んでばかりいないで…
たかが遊び…
ほんの遊びごころで…
こういう言い方をされる時、遊びの地位はまことに低い。仕事や学習には役立たないどころか、有害だと見られることも多い。それほどではなくても、たんなる気晴らしか気分転換くらいにしか見られていない。
たしかに「よく学びよく遊べ」ということばもある。勉強だけではいけない、遊びも精一杯やりなさいというのだが、この格言には二つの問題がある。
ひとつは、学習と遊びが別のものと考えられていることだ。遊びと学習を統一的にとらえる視点がない。しかも大切なのは学習の方だと見られている。遊びが大事というより、遊びも大事という程度なのだ。
遊びは神性の発現
ところが教育学の歴史では、人間の成長における遊びの役割を高く評価する人が少なくない。その代表的な人が、シラーとフレーベルである。
「ウイリアム・テル」の作者シラーにとって、遊びは時間つぶしどころか、完全な人間の最も美しい姿である。
「人間は、ことばの完全な意味において人間である時にのみ遊び、また遊ぶ時にのみ完全な人間である」(『美的教育論』)
シラーは、自然と精神の統一、あるいは感性と理性の調和を理想とした。
遊びは、その調和した姿だというのだ。幼稚園の創始者フレーベルも、遊びを美しいものと見る。
「幼児の生活で最も美しいのは、遊んでいる幼児ではないだろうか。
遊びに完全に没頭した後に眠り込んだ幼児ではないだろうか。…遊びにおいて、人間の最も清純な素質、内面的な神性が現われてくる。」(『人間の教育』)
フレーベルは、教育とは子どものうちに宿る神性を刺激し、これを発現させる仕事だと考える。その神性は、遊びという形で最も生き生きと現われる。遊びこそは、すべての教育の出発点であり基盤である。
遊びが仕事、仕事が遊び
シラーとフレーベルは「シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒涛)」と呼ばれたドイツのロマン主義文芸時代に生きた詩人と教育学者である。その思想と表現は、私たちの心に深くひびく。しかし説明はしにくい。
デューイは、フレーベルの思想を高く評価しながらも、その神秘的な象徴主義を批判している。彼の遊びについての論説は、シラーやフレーベルほどには感動的とはいえないが、私たちにはわかりやすい。
「ことばの本来の意味において、遊びと仕事は相反するものではない…両者の違いは、時間の長さにあり、それは目的と手段のつながりの差となって現われる。遊びにおいては、興味がより直接的だということだ。」(『民主主義と教育』)
普通は、遊びはそれ自体が目的であり、仕事は別の目的のための手段だと考えられている。遊びは、その時々が楽しいけれど、目的実現のための仕事はつらい過程だとも見られる。
これに対してデューイは、遊びにも、目的のための手段としての側面や、知的な見通しがあるし、肉体的な苦労や粘り強さも要求される。
いっぽう仕事の中にも、それ自体に充実感や楽しみがある。遊びは快適で楽しくて仕事はつらいとは限らない。要するに、すべての活動には、遊びと仕事の要素が含まれている。両者の違いは、質的な違いではなくて、量的な差である。つまり、より遊び的な活動と、より仕事的な活動があるにすぎない。仕事から遊びの要素が失われると、強制労働や苦役になる。仕事の要素のない遊びは、一時的なひまつぶしや気晴らしになる。
私の長男が5、6歳の頃だ。突然こんなことをきいてきた。
「ねえ、お父さん。お父さんは仕事って楽しい?」
「すごく楽しいよ。」
「ふーん、お父さんは、仕事が遊びなんやなあ。ぼくはな、遊びが仕事やねん。」
遊びと子どもの発達
じっさい、遊んでいる子どもは、とても真剣だ。そして遊びの中で、子どもは多くを学び、さまざまな力を身に付ける。遊びは、気まぐれな時間つぶしではない。
ある幼稚園児が、ビールびんに水を入れて遊んでいる。バケツに汲んできた水をひしゃくにすくい、じょうごに注ぐのだ。しかし、じょうごの水がびんに入ってくれない。何度も繰り返しやってみる。何かの拍子に入ることもある。目つきは真剣そのものだ。
じょうごの持ち方が悪いのかと思って、しっかり持ちなおす。すると余計に入らない。
30分以上もたって、ようやくかれは、じょうごとびんの口に少し隙間がある方が入りやすいのではと気付く。確かめてみる。うまく入る。こういう時の成功の喜びはとても大きい。ひとりでにほほ笑みが浮かぶ。とても美しい。
この水遊びは、たんなる気晴らしではない。手と目と頭をフルにつかった粘り強い仕事だ。バカにしてはいけない。
集団遊びは、子どもの社会性や道徳性の芽生えを養うのに不可欠だ。順番やルールなどを理解し、しかも守らないと集団遊びは成立しない。しても楽しくない。むろんわがままは通らない。楽しいことをより多く、いやなことはより少なく。これは社会生活でも必要でしかも役に立つ考え方だ。それを学ぶのに遊びほど有効なものはない。
きのくに子どもの村のプロジエクトも、同じ発想から生まれた。それは、それ自体が目的であると同時に、ある結果にいたるための手段を選択し、体と心と頭を総動員する本物の仕事でもある。そして結構しんどいけれど、楽しくて充実感と達成感が大きい。そしてそこでは、さまざまな学習がゆたかに展開される。