あっという間に年末を迎えました。今年の出来事は、皆さんにとってどのような経験だったでしょうか。ときにそれは非常に重く、辛いものだったかもしれません。その中でもなお、多くの学びと出会いがあったと感じていらっしゃる方もおられることでしょう。また、先の大震災で、まさに耐えがたい出来事を体験された皆さまに、改めて心からのお見舞いと平安をお祈りしたいと思います。
人は往々にして、許しがたい人や許しがたい出来事と出会うことがあります。この「許しがたい」という感情は、ある視点からは「適切な怒り」として、それが社会進化の原動力になる大切なものだと説明されます。私も若かりし頃、そのように信じ、怒りを政治や政治家、社会の矛盾に向けることで、社会の変革なし得るのだと考えてきました。これは、「社会制度の改良」という意味からは間違っていないかもしれません。しかし、不思議なことに何かを「許しがたい」という気持ちをいくつか抱えている人には、またそのような気持ちになる出来事が次から次に立ち現れてくるものです。
私たちの国・日本と日本人は、戦時下における唯一の被爆国とその国民です。それは今も変わっていません。核兵器によって無残に多くの命が失われたその国土で、また原子力発電所の事故という核の暴走が起き、あまりに多くの人たちの平穏な生活の道が奪われてしまったことが残念でなりません。その一方で、以前から原子力発電にどのような評価をしていたかを問わず、私たちはこの国で暮らし、結果として輸出国としての製造を担うエネルギーを原発に依存してきました。私たちは電気をふんだんに使える生活の快適さを享受することで、その光と裏腹な陰の部分、つまり有害電磁波の家庭内拡散と、原発による汚染リスクの増大をセットで受け止めていたのです。化石燃料はCO2の排出が多いので、原発は地球にやさしいなどというわけの分からない論理を信じたことはありませんでしたが、私もまた、便利な生活に慣れきった一人でもあったわけです。
原発事故発生直後、ニュースの映像と情報に釘付けになりながらも、私たちが「今、すぐ、誰でもできること」として選択したのは、会社の業務を一定時間停止して、震災で傷ついた有縁無縁の皆さん、さらに事故で暴走している原発そのものに祈りを届けることでした。『痛みを負った人たちに光を、懸命の救援活動をしてくれる皆さんに力と感謝を、そして原子力発電所で行き場を失った核物質にも今までお世話になってありがとうの気持ちを送りましょう』という祈りです。今も福島はじめ高いレベルの人工放射線の中で暮らす皆さんに対するお見舞いの念は全く変わりません。ただ、暴走する原発を前に東電や政府に対する不平不満を述べることよりも先に思い出すべきことがあると私は考えています。それは、日々の暮らしをどのような形であっても支えてくれていた原発や核物質そのものに対する感謝です。このように表現しますと原発是認のように聞こえるかもしれませんが、それは私の本意ではありません。私は原発だけではなく、節度ある医療用途以外の、核兵器に代表される核利用に対してはずっと以前から受け入れないという立場です。ただ、同時に常に念頭においているのは『この世のあらゆるものには意識があり、不調和を調和した状態にできるのは感謝以外にない』という摂理です。また、『人の行動の動機は究極的に2つしかない。それは愛からの行動か、恐怖からの行動か』という言葉も私の側にいます。
許しがたきを、許すこと……許せない気持ちが決して与えないもの―それは何かを、誰かを許せるようになるチャンスです。おそらく許せない気持ちが最も深く傷つける対象は、その人自身なのでしょう。許せないと思っている相手は、ますます許せないことを引き起こしたり、さらに許せない状況を作り出したりします。恐怖もそれに似ています。恐れや不安の根底には「未知(解らないという気持ち)」があり、ときとして恐怖は人を攻撃的にします。攻撃した次に、今度は何が起きるか解らないという気持ちがさらに恐れをもたらし、そこから身を守り続けるために恐怖そのものを動機にしてまた予防的に攻撃するという連鎖を生み出します。止めどない軍備拡大と経済至上主義の根っこはここにありました。この連鎖を断ち切れる唯一の処方箋、それは感謝であり、「ありがとう」の一言です。結果として救われるのは他の誰でもない、私とあなた、つまり自分自身です。このことを思い出しながら、今年の体験が私たちにもたらした意味を振り返りたいものです。