刻々と変化する情報という刺激に
反応することで、疲弊していませんか?
父が亡くなって10年が経つ。亡くなる前、「苦しいから抗がん剤治療をやめたい」と絞るように出していた声を今も思い出す。当時、私の目には、抗がん剤は父の身体と闘っているように見えた。がんと闘っているようには見えなかったのだ。大学で制がん剤の研究をしていたが、目の前の現実は研究室での想像とは違っていた。
医療の限界を目の当たりにした私は、父の身体に触れることしかできなかった。ボディワークを習ったのは、仕事のパフォーマンスを上げるためであり、当時は、セルフメンテナンスすることが目的だった。しかし、亡くなる直前まで父に触れていたことで、限界がくる前に身体に意識を向ける人が少しでも増えたらという思いが芽生えた。そして、周囲の反対を押し切って会社を辞め、ボディワークを仕事にした。
開業してすぐに友人たちに「試しにボディワークを受けてくれないか」と頼んだことがある。ボディワークの良さを自身が体感しているし、その必要性を論理的に伝えることができると思っていた。しかし、私が想像していた反応が返ってきたのはたった一人だけ。その友人に受けようと思った理由を聞いてみると、「よくわからないけれど、寺嶋が良いと言うなら受けてみようと思った」と言われた。これを聞いて、私は多くの友人たちと表面的な関係しか築いてこなかったことに気がついた。きっと、よくわからない怪しいことを始めたと思われているのだろうと考えていた。でも、それ以上に、私が人を信頼していなかったから、人からも信頼されていなかったのだろう。その友人のおかげで、私はどうしてわかってくれないんだと感情的に反応することなく、自身の人間関係の問題に気がつくことができた。
人は出来事や情報といった刺激に対してどう反応するのかを選ぶことができる。しかし、コロナの騒動のなか、デマで街からトイレットペーパーが消えた。世の中に漂う不安感が情報に安易に反応する人を増やしている。それが悪いわけではないが、刺激と反応の間にひと呼吸置いてみると、より良い選択ができるのではないか。刺激と反応の間には、現状を打開するカンフル剤がある気がする。そのためには情報と繋がりすぎず、信頼できる人と繋がることだ。
感情の起伏の少ない私は、妻の喜怒哀楽という刺激にも反応が薄いらしい。自分では反応しているつもりだが無関心と思われる始末。どうしてわかってくれないんだ!という反応を選んでみようか。