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特集

インタビュー取材しました。

未来の選択肢を増やすために
コミュニティカフェ「はうす結」 共同運営者 上西 幹子 氏インタビュー(前編)

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京都市上京区に、障がいの有無や年齢、背景を問わず、いろいろな人が気軽に行ける場「はうす結」があります。そんな温かい場を運営する上西幹子さんの娘の結子ちゃんは、ダウン症という障がいがありますが、ダンス、絵画、写真が得意で、通信制の高校にもひとりで通っていました。どんな思いで子育てしてこられたのか、また、「はうす結」を作った経緯についてお話を伺いました。

はうす結 共同運営者
上西 幹子(うえにし みきこ)

米国フェアリー・ディキンソン大学出身。ダウン症の娘の将来を見据えて新しい道を模索。障がいの有無や、年齢など特性や背景などが異なる人が一つの場所でいっしょに過ごすことの大切さ、ただ話を聞いてくれる「場」の必要性を感じ、同じく障がいのある子を育てる宮本真弓さんと「はうす結」を立ち上げた。気軽に座って話せるような土間があるスペースは、幹子さんの夫が町家をリノベーション工事したもの。
はうす結 公式サイト https://cafehouseyui.jimdosite.com/
はうす結 インスタグラム https://www.instagram.com/house_yui/

障がいがあることを
忘れて育てる

——お子さんがダウン症だと知ったのはいつですか?
産後3週間ぐらいだったかと思います。出産した産婦人科で「心雑音があるので検査をしましょう」と言われて血液検査をしました。その検査結果について病院から電話があり、夫婦揃って結果を聞きにくるようにとのことで病院に行ってみると「お子さんはダウン症です」と言われました。いきなり告げられて、あまりのショックに一気に血の気が引くのがわかり、そのままその場で倒れてしまいました。まさか自分の子に障がいがあるとは、考えたこともありませんし、そんな話をされるとも思っていませんでした。

その後、ダウン症の子をどう育てていけばいいのか説明もなく、ただ、医師からは児童相談所と、民間のダウン症のグループの連絡先をもらいました。でも、私にとってはその前に、まず初めての出産で、初めての子育て。子育て全般のこともわからないのに、なにをどうしていいものかまったくわからなくて、毎日泣いていました。実家の母に相談しても「母親になったんだから泣きなさんな」と言われてしまい、不安も悲しみも、だれにも気持ちを吐き出す場所がありませんでした。

児童相談所に連絡してみましたが、「困っていることはありますか?」と聞かれました。困っていることといえば、ある意味、今後のことすべて。なにもかもが不安だったので、具体的になにに困っているかさえわからない状態だったので答えられなくて。すると、「困ったことがあったらまた連絡してくださいね」と言われました。

途方に暮れていると母に「障がいを忘れて育てなさい」と言われたんです。「親であるあなたはもちろん、周囲が障がいを持っているというイメージを持つことで、この子をどんどん『障がいのある子』にしてしまう。だから、それを忘れて育てなさい」と。いま思うと、いわゆる「引き寄せの法則」のような考え方ですよね。「一人の子ども」として育てることを大切にする。驚きを持ちつつも、なぜかその言葉が腑に落ちたんです。たしかに詳しく調べてしまうと、そこに書かれた発達基準で、できること、できないことを捉えてしまいそうだなと。そこから一度もダウン症について調べたり本を読んだりすることなく育てました。療育手帳についても小学5年生で放課後デイサービスに行くのに必要になるまで申請していませんでした。たまたま、テレビなどでダウン症が話題に出るのは観ています。でも、夫も「結子は、結子」「頑固とか、納得するまで動かないとか、子ども時代の俺とそっくり。それが特性なら俺もダウン症ってことになるなぁ」という感じで詳しくは知りません。夫は娘に「結子は、やればなんでもできるよ」と伝えています。

——それはすごいですね。
いえ。不安だからこそ、あえて情報を遮断したんだろうと思います。強いわけじゃないんです。衝撃が想像の範疇を超えていて、どうしていいかわからなかった、というのが本音です。

不安な気持ちをマタニティヨガを担当していた助産師さんに聞いてもらいました。そのとき、彼女が「とにかく同年代の子どもさんといっしょに過ごさせること」と教えてくださったのです。同世代の子どもたちから刺激を受けることで発育にも影響すると知り、私は、次の日から、娘が3歳になるまで、毎日、地域の児童館に通いました。

偏見や比較
自分自身との闘い

——0歳の赤ちゃんを毎日連れていかれたんですか?
はい、毎日です。実際、ほかの子に刺激を受けて、結子は成長してくれました。お菓子を競い合って取ろうとするなど、ひっくり返ったりしながらもどんどん動けるようになっていきました。やはり、第一次欲求を叶えるためというのが成長のきっかけなのでしょうね。

児童館には妊娠中に知り合ったマタニティ仲間も子連れで来ていました。否応無しに、その子たちの元気な発育を毎日のように見せられてしまうことになります。それは、私にとって「こうありたかった」と切に願う理想の親子の姿でした。児童館に娘を連れて行くということは、そんな現実と向き合うことで、私にとって、それはほとんど「闘い」のようなものでした。毎日、児童館の前に立つと、一呼吸して気持ちを切り替えて中に入ります。ほかの親子たちと接している間は、気丈に振る舞い明るく話せるのですが、家に帰ると、娘をベッドに寝かしてつけて、隣の部屋で号泣する……という毎日でした。成長して娘が動けるようになってくると、帰宅後に私のところにやってこようとするのを阻止して「来ちゃだめ!」と避けていましたが、時々、泣いている私の顔を見られてしまうこともありました。

ある日、児童館でトイレに行ってから戻ってくると、マタニティ仲間が「毎日、結子ちゃんを連れてこられたら子どもの成長の話をしにくくなるよね」と言っているのが聞こえてきました。私のほうからは悩みを話したり愚痴ったりしないように、極めて明るく振る舞ってきたのに、結局は、そうして避けられてしまう。そのショックで、一度、トイレに戻って涙を拭いてから、そのママたちの輪に戻ったものです。同じようにマタニティの時期を過ごしていたのに、ダウン症の子を産んだそのときから、友だちと思っていた人たちの対応がすべて変わってしまう。私は、ただ、娘の成長を思って連れていっただけだったのに、来ないでと言われているような気がしました。

その仲間の一人に、あるとき、辛い気持ちや、なぜ児童館に毎日行っているのか、その理由を話しました。受け止めてくれたのかなと思っていましたが、同世代の子どもたちから刺激を受けるためだと知った、そのお母さんは、それを理由に、私に子どもを預けるようになりました。「同世代の健常児を預けて刺激をあげている」と思っていたようです。子どもを産むまで知ることのなかった見えない壁のようなものを、このころから感じるようになっていきました。

——それは対等な関係には思えませんね。その後、保育園や幼稚園などはどうされましたか?
娘が4歳になり、私は幼稚園に入れたいと思っていました。仕事もしていなかったので当たり前に幼稚園に行けるものだと思っていました。地域の福祉課に相談に行くと、そのときの担当者の方の思い込みかもしれませんが、「ダウン症の子は幼稚園には入れません。保育園しかダメなんです」と言われました。障がいを持つ子と、その家族には、選択肢がないような息苦しさを感じました。仕方なく保育園を探しました。仕事をしていなかったので、そのために仕事も探すことになりました。当時、在住している地域の保育園には空きがなかったので、隣の地域の保育園に入れました。後から、幼稚園にもダウン症の子が通っている事例があることを知りショックを受けました。各幼稚園に個別に問い合わせてみることで道が開けたのかもしれません。

児童館に通っていた甲斐があったようで、娘の発育はいわゆるダウン症の子にしては、運動についてほとんど遅れを感じられないと言われました。そして、加配(障がいのある子に別途担当がつくこと)もなく、保育園の4歳児クラスに入りました。ところが、娘はここで甘えることを知ってしまいます。お散歩しているときに座り込むと、保育士さんは抱っこしてくれる、どうやら私は特別らしいと、子どもなりに知恵をつけてしまったようです。私から「娘は歩ける子です」と伝えても、保育士さんはベビーカーに乗せてしまい娘の思うままになっていました。家での態度と、保育園からの連絡帳に書かれている様子に、開きが出てきました。親としては、障がいがなんであろうと、娘個人の発育状況や性格を見て、それに対応してもらいたい。でも、ダウン症だから筋力がないだろう、歩けないだろうと決めつけられてしまう。先生という職業柄か、知識による判断を優先しておられることを残念に思いました。

子どもの学ぶ機会を
守るために

——専門家ゆえの思い込みがありそうですね。小学校はいかがでしたか?
保育園でお友達もできたので、同じ公立小学校に入れるべく、保育園のあるエリアに引っ越しました。障がいのある子が入学する場合、事前に就学前診断があるのですが、連絡がなく不思議に思って問い合わせると、「ダウン症の子は『育成学級』に入れますよ」と当然のように言われました。それは、当時の娘の小学校の校長判断でした。たしかにそのころの娘は会話が成り立たないこともありましたが、それでもみんなと過ごしてきたので、面談もなく育成学級に決まり、普通学級を選べないことにショックを受けました。

娘の育成学級は先生1人に対して障がい児2人という体制でした。入学当初の担任の先生がとても包容力があり、「お母さん、これまでよくがんばってきましたね。これから半分は学校で背負うからね。学校に行っている間は心を休めてね」と言われて心の底から安堵しました。ただ、その先生は夏休みに体調を崩され、別の先生に変わってしまいました。また、その育成学級では教科書ではなく絵本を与えられ、普通学級との交流が「体育」と「図工」ぐらいでした。普通学級の子どもたちにとって、娘たちは友達というよりたまに来る「お客さん」の状態。交流ともいえませんし、みんなから刺激を受けることもなさそうです。

そこで、校長先生と育成学級の先生に、なんとかもう少し普通学級で授業を受けることができないか相談に行きました。しかし、ある先生に「障がいのある子に勉強は必要ありません」「『男』という漢字と『女』と言う漢字だけわかれば、将来、トイレで困ることもありません」と言われました。校長先生に
「なにをおっしゃりたいのかわからない」と言われました。非常に驚きました。私はただ娘に「学ぶ機会」を与えてほしいと思っただけです。勉強しても身につかないこともあるでしょう。興味もそれぞれでしょう。でも、やってみる前にその機会を取り上げてしまうのは腑に落ちません。勉強が必要かどうか、意味があるのか、先生が決めることではなく、本人が決めることのはずです。納得できず、何度も学校と交渉を重ねました。

給食の時間も、普通学級とは別々でした。子どもたちからすると、道徳の時間に「みんないっしょですよ」「差別してはいけません」と習うのに、これまでいっしょに過ごしてきた娘と授業も給食も別々の場所。そこに疑問を持った保育園時代のお友だちがお母さんに伝え、そのお母さんが学校に掛け合ってくださったようです。普通学級の子どもたちが育成学級に数人で通うスタイルではありますが、いっしょに食べることを許されたようです。

3年生から始まる「理科」「社会」は、最初は障がい児には必要がないと外されていましたが、「学ぶ機会を奪わないでほしい」と学校にお願いした結果、育成学級で学びつつ、理科の実験などから少しずつ普通学級でも学習させてもらえるようになりました。娘が普通学級に入ることで、健常の子たちの成績が落ちるのではないかと懸念されましたが、蓋を開けてみると逆だったようです。娘に教えるためにちゃんと理解しようとしたことで、むしろ成績が上がった子もいたのだと普通学級の先生から聞きました。

子どもたちの可能性は、障がいの有無に関わらず本来は無限のはずです。制度や決まりを理由に学ぶ機会を取り上げ、その結果、障がい者の進路は福祉施設、そして、年金生活と限定されがちです。将来の道も、勉強が必要かどうかも、本人や家族が選択できないことは問題ではないでしょうか。

娘は理科で星座のことを習うと、夜に空を見上げるようになりました。社会で織田信長を習うと、テレビで信長の名前を聞くと「知ってる!」と目をキラキラさせます。普通学級の子どもたちと比べてどこまで身についているのか、それはわかりません。それでも、娘が学んだことが暮らしのなかにどんどん生きていくのをそばで見ていると、「学ぶことの楽しさ」を教えてもらえた気がしました。私にとってはテストのため、受験のための勉強。ほぼ記号としてインプットしてきたような言葉も、彼女の場合は、しっかりと暮らしに生きている。学びとは、本来こういうことだと、娘に教わった気がしました。(次号に続く)

- 特集 - 2023年4月発刊 vol.187

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