思考は現実化する
生卵を立てたことがありますか。私はあります。「立つわけないでしょ」と決めつけていたら、きっと立たなかったことでしょう。そのときは「必ず立つ」と思っていました。あるセミナーに参加したときにその課題を与えられたのですが、できたのは私だけでした。たまたま卵の形が良かったとか、たまたま水平の場があったとかはあると思うのですが、なるようになった、頭のなかの思考が現実化した瞬間でした。
『思考は現実化する』(ナポレオン・ヒル)という本があります。中身を読んだわけではないのですが、この本のタイトルのごとく、思考は現実化するんだなということを、以前から思っていました。いつも頭のなかにある思考は、自動操縦のごとく無意識が現実をそのように引っ張っていってくれるのでしょう。現実化したいことがあって、いつも頭のなかに描くことができなければ、紙に書いて張っておくことが効果的です。居間に1枚、トイレに1枚とか、頭の片隅から消えてしまったときに目で見て思い出すことを習慣づけると良い結果がでると思います。
ありのままに表現する
大人は子どもの模範にならなければならないといわれますが、本当にそうでしょうか。それもとても大切なことだと思いますが、私の感性からすると、大人になればなるほど子どもになっている自分がいて、とても楽しい毎日を送っています(迷惑をかけてしまっている方もいると思いますが)。自分がどう見られたいとかいう考え方が消え去り、見たものや見えないものに対しても、感じたままを話すことで、相手の興味を惹くことが多くなったように思います。感じたそのままを表現し、ありのままの気持ちを伝えることが大切なんだと思います。同じものを見ても皆意見は同じではなく、さまざまな意見がでるのは当然のことです。
すべてに通じること
私は字を見るのが苦手なのですが、なぜか毎月原稿を書いています。そしてまだ確定ではありませんが、この巨漢(太りすぎ)がファスティングの指導者を養成する学校の顧問になろうとしています。この大役はお断りすることもできたのですが、最近は人とのご縁を大切にしようと思い、昔は断っていたであろうことも受け入れ、自分の新たな一面を見いだそうとしています。
それは早く「球」になりたいからです。世の中には三角錐や円柱や円錐などいろいろな形の人たちがいて、同じ物事を見てもその人の形によって見解が変わります。しかしすべては「球」にいきつきます。たとえば、富士山を山梨側から登るのと静岡側から登るのでは見る景色や経験が異なりますが、それぞれの道の困難を打破しながら頂上に着いたとき、山梨側から登った人と静岡側から登った人は同じような立ち位置にいます。それが「球」になることではないかと思います。
職業や宗教にも同じことがいえます。やっていること、やらなければならないこと、その過程は違っても最終的には同じところを目指しているのではないでしょうか。年を重ねるうえで、人格の形成をし、余計なものを削ぎ落としながら学び、人らしい人になることが重要なのだと思います。そこには相手を思いやる気持ち、助ける気持ち、励ます気持ちがあります。相手のために、ひいては植物、動物、鉱物のためになにかしたいと思う気持ち、それはすなわち「愛」なのかもしれません。
以前にも書きましたが、私のミッションは「生に感謝し、この大宇宙に愛を捧げること」です。毎月の原稿もとても大変なのですが、「プレマ」すなわち愛のなかで活かされていることに感謝しています。