以前は職人気質といわれるような頑固な職人がどの分野でもいたものです。たとえば自動車を修理するのでも、「どこが悪いか」「この音が出るのはなにが悪い可能性があるのか」と具合の悪い部分を見つけ出し、直すという行程が踏まれていました。昨今は自動車にもコンピューターなどが多用され、ある部分が壊れてしまうと周辺部分も含め一式交換という方法で修理をするようになってきています。このような方法では、具合の悪い部分を直すのではなく交換してしまえばよいという考え方で、ある意味職人はいらないわけです。
歯科医は職人のようなものです。「こういう症状が出る場合は原因としてなにが考えられるか」「どのような治療の選択肢があるか」ということを考えながら治療していきます。
たとえば、骨の状態やかみあわせなど、さまざまな条件が整っていることを確かめたうえでインプラント治療をおこなうことはあります。しかし、ちょっと具合が悪いからといってすぐに歯を抜いてインプラント治療へという安易な考え方は、大変危険だと思います。なぜなら、インプラントにしてもどんな処置にしても、現状を作った本当の原因にアプローチしなければ、治る方向に導くことはできないからです。本当の原因に焦点をあてないと、いずれまた同じトラブルが起こります。現状が変化した場合、必ずその現状を変化させたなにかを突き止めなければなりません。現状の変化は目に見えますが、その本当の原因は目に見えません。私はいつもその見えないところに注目しています。
職人を養成する難しさ
職人の養成は日本の伝統を守るために必要なことですが、労働条件などの法律的な縛りによって、少しずつ難しくなってきているようです。手前味噌ですが、私の医院の受付の壁は、職人の手により珪藻土を使って大変美しい扇形の紋様に仕上げられています。その美しい仕上がりを習得するためには大変な時間がかかっているはずです。技術職というのは、師匠から教えを受け、それを真似していくという行程を踏みます。それも、言葉で教えてもらうことより、師匠のやっていることを見ながら盗むということが多いわけです。今の法律では、弟子がまだなにもできない状態でも、雇用関係があれば当然賃金を支払わなければなりません。労働についてあまりに細かく法律で規制したがために、技術職における師弟関係のシステムが壊れてきているのではないでしょうか。かつての師匠と弟子の関係では、弟子はできるまでやらせてもらう、できるまで帰らない、できるまで賃金を頂かないという姿勢があり、師匠からすれば材料や時間などの損失があっても、何回も何回も頑張る弟子に対して、職人になるまで諦めずに愛情をもって接する姿勢がありました。それは雇用関係ではなく師弟関係であり、そのなかで両者のバランスがうまくとれていたのでしょう。労働に関する法律は、労働者を守るためにも、雇う側・雇われる側のバランスを取りながら会社を発展させるためにも必要なことだと思いますが、専門的な分野のある意味修行に似た行程においては、どうしても足かせになってしまうことがあるのかもしれません。
全体の調和
自動車修理の場合、部品を一式交換してもしっかり走れるように調整できますが、身体の治療の場合、現在の医療では、細分化した一つの分野でしか治療がおこなわれず、全体の調和という視点が不足しています。その調和がとれないとなにかしら身体の不調を感じながら生活を続けなければならず、さまざまな科を転々とする、いわゆる医療難民が生まれてしまいます。それを防ぐ意味で、最後にかみあわせで歯止めすることが、時代の変化とともに必要となってきていると感じています。