「メメント・モリ」という言葉を聞いたことがありますか?
「memento mori」。ラテン語で「死を忘れるな/死を想え」の意味の言葉です。キリスト教的な意味としては、現世は虚しいものであると知り、魂の救済に想いを馳せるための言葉だそうです。しかしメメント・モリの対句として、「カルペ・ディエム(Carpe diem)――その日の花を摘め/その日をつかめ」との言葉があります。「いまこの瞬間を楽しめ」の意味です。そしてメメント・モリも、本来は「いつか必ず死ぬのだから、今日を楽しもう」との意味だったそうです。
僕がはじめてメメント・モリという言葉を知ったのは、藤原新也さんの著書『メメント・モリ 死を想え』に出会ったときです。藤原さんの写真に言葉が添えられている写真エッセイ集なのですが、とてもショッキングなページがあって、いまでも記憶に残っています。インドのガンジス川のほとりに放置された遺体を、野良犬が食べている様子を撮った写真です。そこに「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」との言葉が添えられていました。いまでは「まぁそんなものだ」と納得できる言葉ですが、この本を読んだ当時(たぶん大学生のころ)は、命の重さ、死生観、生まれ育った国による価値観の違いなど、いろんな思いが交錯して、自分の生きる前提がグラグラと揺れる感覚を覚えました。
メメント・モリという言葉で、もうひとつ思い出すことがあります。一休宗純さんの存在です。特に一休さんが残した句「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらばふれ 風ふかば吹け」を思い出します。句の意味は「人生はこの世からあの世に帰る一時的なもの、雨が降ろうが風邪が吹こうが慌てない慌てない、一休み一休み」です(もっと深い意味もあるとは思いますが……)。
一休さんは後小松天皇の子どもでもあったのですが、当時の仏教界に反発してボロボロの服を着て貧乏な生活をし、お酒も飲んで、50歳も離れた女性と同棲したりしたそうです。当時の仏教界がびっくりするような奇人です。権威に縛られず、完全に自由に、あるがままに生きた人だったようです。
人生は儚いからこそ、
素直に生きる
宗教観は人によってさまざまだと思いますが、生まれる前の世界や死後の世界が存在するか、また存在したとしてもどんなところかは、全くわかりません。はっきりしていることは、生まれたものは必ず死ぬこと。そして(大抵の場合)、死ぬ時期はわからないこと。もしかすると命は無から生まれて、無に還っていくだけの存在かもしれません。そして、よほどの偉人でもなければ、100年後には自分の存在は誰も記憶していません。直接のご先祖様である、ひいおじいさんやひいおばあさんより上の世代の方々のことも知らないことが多いでしょう。ひとは非常に儚い存在です。
いまという時代の一時的な常識、世間体、損得、ルールを気にして、やりたくないこと(やらなくちゃいけないこと)ばかりに時間をかけ、本当にやりたいことを我慢することがバカらしいと感じませんか? 一休さんのように破天荒になることは難しくても、少しでも自分に素直になってみませんか?
本当にやりたいことがわからないときは、絶対に誰もが、自分のことを批判したり、比較したり、評価しない状況だったらと想像して、なにがしたいかと考えてみましょう。世界中の人が必ず自分の味方をしてくれる、応援をしてくれるという世界にいると思ってみてください。その状況をありありとイメージして、少しでも興味のあることが思い浮かぶなら、思い切ってやってみましょう。人目が気になって、批判されることを恐れて、目の前にあるのに「ありえない」とスルーしているだけかもしれませんよ。