「母親の胎内で芽吹いた命この世に産声あげることなく葬られた子どもたち永きに亘る隔離政策によって未来を奪われた子どもたちは今どうしているのだろうか。二度と繰り返してはいけない堕胎の事実を風化させないため、ここに碑を建立し反省を込めて今は亡き子どもたちの心の平安と冥福を祈る」
これは強制的に堕胎された子どもたちの供養塔の碑文です。
明治政府は「癩予防に関する件」(1907年明治40年) を公布し、隔離政策開始。1915年、ワゼクトミー(断種)実施。
1931年(昭和6年)、政府は「国立癩療養所患者懲戒検束規定」を認可し、改正「癩予防法」公布までの間にらい患者の全国一斉調査を度々実施。これにより、全国の全患者が強制収容の対象となる。そして全国の療養所では断種・堕胎・子殺しが強制され、数々の悲劇を生む。戦時色が濃くなるにつれて、患者の人権蹂躙はひどくなる。1944年、宮古島に約3万人の日本軍が配備され、軍部は患者の強制収容開始。米軍の空襲始まる。翌年、空襲激化。療養所の職員は職場を放棄し、患者は治療も受けられず、食料もなく放置される。施設は空襲で壊滅状態。子どもたちをはじめ、餓死者や病死者が続出する。この惨状は「証言集」に生々しく詳記されている。患者たちは国の強制隔離、社会の偏見差別を受けさせられ、戦争で生きる手だてを失い、人間存在すら抹殺され、二重、三重苦を背負わされて生命をなくしていった。
「毎日、そばで人が飢えて死んでいくことが続くと、何も感じられなくなっていった。食べ物を分け与える事もしない。そうすれば自分も死ぬ。」
日本の敗戦を患者たちの多くが喜んだ。空襲が止まった。その上米軍は豊富な食料を軍用ヘリで療養所に直接運んできた。今まで日本国政下では味わったこともない、見たことすらないような食べ物を目にした。
療養所は米軍政下で新たな出発をした。戦争で療養所を出て、島の内外へ移っていった患者たちが続々ともどってきた。人数が大幅に増えた。患者たちはまっ先に食料生産に取り組んだ。
「療養所のまわりの山林原野を切り拓き、いもや野菜を植えた。宮古島には毒草はほとんどなく、食べられる野草が年中自生している。」
「近くの海では、貝、カニ、エビ、小魚、 海草がたくさん採れた。」
「山羊や豚や鶏の飼育も手がけた。」
患者たちの生産の仕方はまさに「自然栽培」の原型です。現在、平均年齢が80才代になっていますがみなさん、元気です。その元気の源の一つはこの時の「自然栽培」の経験にあると思います。
1996年(平成8年)「らい予防法」廃止
2001年(平成13年)「らい予防法」違憲国賠請求訴訟勝訴
1998年に始まった国賠訴訟を支援する運動はまたたくまに全国に拡がり、宮古島では「国立療養所宮古南静園者自治会」及びみやこあんなの会を中心とする「ハンセン病と人権市民ネットワーク宮古」の活動が続けられている。
上里栄さんは1964年退所希望者とその家族60名で西表島東部を開拓し営農センターをつくる計画をすすめたが住民の反対で断念した。それでも、宮古九条の会、宮古平和運動連絡会、ハンセン病に関する教育講演会、子どもたちの農業体験学習、フクシマ支援など多方面で活動している。
野原忠雄・百合子夫妻は、私たちと家族同様のおつき合いを続けている。様々な関心を持ち、前向きにとらえ、積極的に行動する。それは、環境、水、海洋、サンゴ、産廃、自然農法、宮古語、平和、芸能、歴史、民族、子育て等多方面にわたる。又、ハンセン病の語り部を生涯続ける強い意志を持つ。先年、順天堂大学に招待され、ハンセン病に関する講演をする。一人息子は東京で結婚し、孫二人。
<参考資料 >
◎ガイドブック「宮古南静園」
◎「沖縄県ハンセン病証言集ー宮古南 静園編」
川平 俊男
川平 俊男氏 1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。 |
プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト』 宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。 |