「ハーイ、カビラ! ウワマイスゥユ、ファーディ。アティナイィアシーウリバドゥ。ムリイキ、ピトゥンフィティー。シニャティウリバ」。(川平君、君も冬瓜を食べるか? あんまり穫れ過ぎて、人にあげるのに難儀している。)
「タンディガータンディ。アンスゥガドゥ、バンターマイ。ドゥシーチッフィウリバ、フォーダキガマー。イツーマイアイズドゥス」。(どうもありがとうございます。ただ私たちも冬瓜生産者なので自給用はいつもあります。)
農地基盤整備直後の畑の用排水路の中間的合流池ができている。そこに魚や水辺の生き物のために給水のしくみをつくる相談に行った時の事だった。
この地域一帯は表層水が少ない宮古島では珍しく、表層でも地下でも水が豊かだった。沼、池、ため池が多く、それらは用排水路で結ばれていて小川になって多くの水生動物でにぎわっていた。「めだかの学校」であり「どじょっこふなっこ」の世界であり、ホタル、水すましその他の名も知らない無数の昆虫の天国であった。また水辺ではえん菜(空心菜)が一年中青々と繁っていて、葉野菜として利用されていた。用排水路(小川)は農業用水に利用され、子供たちの遊び場及び自然学校となり集落の中では洗い場となり、海へと注ぐ地域では干潟の海水と混じり合いマングローブ林をつくっていた。
ところが、1972年の日本復帰後状況は激変した。農薬、除草剤、化学肥料の多用で小川から“いのち”が一挙に姿を消した。沼地やため池では細々と“いのち”が引き継がれていた。しかし、農業基盤整備大規模土木工事でその“いのち”はとどめをさされ、ほぼ全滅してきている。自然界の動植物の生存バランスは崩れてしまった。また、人間の手が加えられることによって微妙にバランスを保ってきた里山も生活に必要なくなり、放置されている。その結果、外来病害虫も含めて、畑では無農薬栽培ではとても手に負えないぐらいに病害虫が多発するようになった。ずっと昔から誰でもつくれて、大規模でも家庭菜園でも完全無農薬栽培ができていたヘチマが、近くの沼地、ため池、小川が消えた時期に病害虫で全滅した。これはあくまでも始まりであり、これからどんなに変わってくるのか予測がつかない。近辺の沼地、ため池、小川が埋められ、水辺の生き物がいったん姿を消した。
土木工事の中で、大雨の時の畑の排水池が所々につくられた。私は時々、見て回っていたが、生き物は見えなかった。今年の春から夏に集中豪雨があり、小川や人工池が広範囲に繋がった時が数回あった。その後、近くの5m四方ぐらいの小さな中間的合流池にメダカをはじめ、水生動物が現れてきた。水藻、水草も生え始めた。嬉しくて、畑の行き帰りに毎日見守っていた。ホントに嬉しかった。しかし、もともと排水のための池なのでしばらく雨が少なくなると水は涸れ、生き物たちは姿を消してしまう。その池の隣に畑があり、そこに畑への灌水設備ができた。その設備を池の生き物たちのために利用する方法の相談のために、畑主に会いに行った時、冬瓜の話が出た。池への給水は了承してもらった。畑主の名は崎原正幸。84才。(〒906 -0305宮古島市下地字与那覇772)崎原さんは私の父が農協合併前の下地農協の専務だった時に理事を務めていた。あの謹厳実直を絵にかいたような川平専務の長男だからだと思うが私の話に気軽に付き合ってくれる。
「二期目の西瓜の植え付け後(6月頃)、欠株がいくつか出た。基盤整備工事後のキビ畑の道ばたに冬瓜が一本だけ芽を出していた。自分で種を播いた覚えがない。西瓜の欠株個所へ移植した。冬瓜は50数年つくった事がなく、現在の野菜農家のつくり方は知らないので、鶏糞を使い、サトウキビの残り肥料を少し逗肥した。水は灌水設備があり充分かけたと思う。8月下旬から実をつけ始め、9月から穫り続けた。実がつき過ぎ、なんと11月中旬まで70個以上穫れた。もっともっと実がつく勢いだったが収穫した冬瓜の処理に困り果ててしまい、冬瓜は鋤き込んで別の作物に変える準備をしている。冬瓜とはこんなものなのかなあ」。淡々と語る崎原さん。これは宮古の農業生産史上、画期的大発見であると思う。その意味については次回に続きます。