前回、すべてのことを肯定するという心の練習を紹介しました。今回はそれをもう一歩進めみましょう。
前回は「この世の中はなんでもありの世界なんだよね。自分にどんな事が起こっても仕方がないよね。納得できないこともあるけど、いったん受け入れよう」という、渋々でも現実を認める方法でした。今回は、もっと積極的にすべてを肯定する、という練習をしてみましょう。
すべてを肯定する練習
「なるようになるさ」
「みんな○(マル)、全部○(マル)」
繰り返しこの言葉を唱えてみましょう。しばらくは「そんなこと言っても、嫌なことは起きるし、なにもかわらないよね?」という状況が続きますが、めげずに続けていると「マイナスだと決めつけたのは自分の価値観かもしれない」ということがわかるようになってきます。
私達は、起きた出来事に「良い事・悪い事」と勝手に自分なりの意味をつけてしまっています。出来事自体には、本来意味はありません。こういうと、「でも、人殺しや戦争はだめなことですよね」という反論が聞こえてきそうです。しかし、立場や時代が違えば、敵をやっつけることが正義になる、人の数だけ正義がある、ということを私達の歴史は何度も経験してきました。
動物の世界では、肉食動物が草食動物を捕食して命をつないでいます。「ライオンが狩りをしてシマウマを捕食した」という出来事があった場合。狩りをしたライオンに小さな子どものライオンがいたら、シマウマを捕まえることができてよかったねぇと思うし、食べられたのがお母さんシマウマだったら、小さな子どもシマウマがかわいそう、と思います。視点が変わると真逆の価値観になるのはそんなに珍しいことではありません。物事の意味は、簡単に変えることができるのです。
また、同じ出来事でも、プラスと感じる側面と、マイナスと感じる側面があります。人は、マイナスと感じたときに、体に緊張が走り、アドレナリンが出ます。マイナスをたくさん感じると、交感神経が緊張し、冷えたり、痛みを感じたりして、病気になりやすくなったり、病気の治りが妨げられます。
どんな出来事にも意味がないのなら、できるだけマイナスと感じないようにしたほうが、健康に良いということになります。「みんな○(マル)、全部○(マル)」は、どうせ出来事に意味がないのなら、すべての出来事をまるっと肯定しようという呪文です。
「かんながら」で表される境地
すべてのことに意味はない、ということが実感できるようになってくると、起きる出来事を、すべて起きるままに受け入れる、という心境になってきます。自分自身も、自分以外の人や出来事も肯定したとき、他人や環境をコントロールしようという気持ちがなくなります。そうなると後は、物事の流れのままに任せようという気分だけが残ります。
そのとき、「あー、今まで心にいっぱい鎧を着ていたなぁ。必死で自分を守ろうとしていたなぁ。世の中敵ばっかりと思い込んでいたなぁ。そのまま、このまま、あるがままでいいんだなぁ」ということに気づきます。自分自身と自分を取り巻く世界を完全に信頼している状態です。
古来、日本人はそういう心境を「随神(惟神)」という言葉で表現していました。「かんながら」とは、神意のままに、神の御心のままにということです。「かんながら、かんながら……」と唱えていると、コントロールしようという気持ちが薄くなってきます。心が広がったような、スカッとしたような、晴れ晴れした気分をキープできるようになってきます。