身に覚えのない見当違いなことで、なんだかこちらが叱られているような気がしてしまうことはないでしょうか。
開業して17年になりますが、いまだに「マッサージしてほしい」と訪ねて来られる人がいます。「おもての『鍼灸院』の看板は見られましたよね」と、はり・きゅうの施術をするところなのだと伝えても、「なんで揉んでくれないんだ」、「やってくれてもいいだろう」と強く言われ続けているうちに、なんだか申し訳ない気持ちになり、自分が間違っているのか自問しそうになります。
さすがに、「本が欲しかったら本屋さんに行きますよね。衣料品店には行かないですよね」や、「うどん屋さんでラーメンは頼まないですよね」と言えば伝わることがわかってきました。看板に偽りなし、ということです。
一方で、一見さんで訪ねてくれる人がいるというのは、敷居を高く感じさせているわけでもなく、怪しそうに見えるわけでもないのだなと良い面を受け取るようにしています。
声の大きさ
昨今、「カスハラ」や「クレーマー」という言葉が広く認識されるように、苦情を言う人が多いようです。テレビ番組なども「あの意見はおかしい」、「あんな人はテレビに出すな」といった抗議の電話が多いと聞きます。そんなにイヤなら、手元のリモコンでチャンネルを変えるなり、スイッチを切るなりの拒否行動もできるだろうと思います。また、「あんな過激なシーンは、子どもに見せられない」と言うけれど、そんな遅い時間に子どもが起きていてテレビを見せていることのほうがおかしいのではと思うようなこともあるようです。そもそも、すべての人が喜ぶものをつくれるはずがありません。人はそれぞれ価値観が異なるのですから、発信者に文句を言う前に、受信者が選べばいいはずなのです。テレビを消して、本を読んだり、人と話したりすることのほうが人生は豊かになる気がします。見たい人が見る、見たくなければ見ない。それだけのことではないでしょうか。
いわゆる「炎上」と呼ばれる騒動でも、「自分が間違っているのではない」ことを確認したかっただけというのが発端となることもあるようです。それで相手をさらし者にしてしまったり、迷惑をかけてしまったりして、取り返しがつかなくなることもあるでしょう。言葉を発する前に考えたほうがいいことがあるのではと思います。
物事の判断が、善悪でもなく、多数決でもなく、ただ声の大きい人の意見だけが取り上げられがちなご時世に、なんだか気持ちの悪いものを感じてしまうのです。
抗議を受けた側にも、声に屈しない強さがあっても良いのではないでしょうか。もう少し、信念を貫いてほしいとも思います。ただ折れてしまうのではなく、物事の良い面とそうでない面の、心の受け取りどころを考えても良さそうです。
就寝前の振り返り
禅の言葉に、「閑眠高臥」とあります。閑は「しずか」、眠は「ねむり」、高は「たかさ」、臥は「ふせる」こと。枕を高くして、静かに眠るというところでしょうか。心になんの憂いも持たず、ただごろりと寝転がるという意味になります。心になんの憂いも持たずに横になることで、自分の本当の気持ちと静かに向き合えるというのが大切なところです。
夜、眠る前には今日一日を振り返ってみて、その日に起こったことのうち、幸せなこと、感謝したことを思い起こしてみます。幸せな気持ちで一日を終える習慣をつけることが、静かに自分と向き合うことに繋がります。心に感謝の灯がともることで、心は穏やかになれるものです。静かな眠りを習慣にしたいものです。
