私は月に1度整体の勉強のために豊橋へ車で通っています。日曜日の午後6時からの講座のため、勉強が終了すると午後10時を過ぎてしまいます。それから車で東京に帰るという生活をしていますが、最近つくづく思うことは高速道路の運転マナーが非常に悪くなったということです。速度が遅いわりに追い越し車線を走っている車が多く見られ、その後ろに車が近づいても反応なく結果的に渋滞を招くことにもなります。基本的に追い越し車線(右端)は追い越すときのみ使用し、通常は走行車線(左側)を走るのが規則のようですが、仮に追い越し車線を走っていても、以前は後ろから車が来たことに反応して、走行車線に入り後続の速い車に道を譲るという暗黙の了解が成り立っていました。混んだ都会の交差点で歩きながら携帯電話をして、行き交う他人にぶつかりそうになりながら迷惑をかけていることと同じです。
恐らくですが、それらのことは、その人の生活すべてに同調しているようにも思え、周りに配慮することができなくなっている人が多くなってきているのではないかと思います。
アクセルを踏まなくてもスピードが一定に走れる機能を積み、今では白線に沿って自動で運転することや、障害物が近づくと自動でブレーキを踏むなどの便利さが増えました。本人次第ですが、その便利さにより社会の秩序が乱れてきていると感じてしまいます。
躾や教育の内容が昔と違うと一言では言い切れませんが、そのようになってしまった社会環境や家族環境に本当の原因はあるのではないかと思います。
感情が揺さぶられる体験を奪うことの弊害
男女平等とよくいわれますが、どういうことが平等なのでしょうか。すべてを同じにするということは平等ではないと私は思います。なぜなら、男と女は身体も心も全く違う生きものです。同じことをするのではなく、役割分担をしっかりすることが本当の平等につながるのではないでしょうか。
今は体罰は禁止というのが主流だと思いますが、私が小学校のときには、忘れ物をしたものは黒板の前で立ち、先生がはたきのフサフサの部分を取った棒でおしりを叩くということが毎日おこなわれていました。叩かれた人の腿の後ろがミミズ腫れになっているのを見ると痛々しく、忘れ物は絶対しないようにと思うようになりました。自分を戒める力になっていたことは、今でもとても良いことだったと思っています。また運動会の徒競走も順位があり、負けると悔しいという感情が沸き、今度は負けないようにと家で密かに練習したりもしたものです。今は極端なところでは、みんな一緒に手を繋いでゴールということもあると聞いたことがあります。子どものときに感情を揺さぶられ、その状況を一つひとつ打破する努力をしたことで、いろいろなことを学べるのに、感情が動かないようにしているのは大きな間違いです。その後、突然、感情が動いたときに対処できなくなってしまうことでしょう。
ゲーム機のなかでのバーチャルなことと、今ここで起こっているリアルな現実との差が便利さを追求したことにより経験値が下がり、人間の脳が休止状態になり配慮がなくなることに繋がってしまっているのではないかと心配です。もちろん多動性のお子様もたくさんいらっしゃるとのことですが、それは、その子どもさんのミネラルのインバランスがそうさせているという考え方もあります。先日オーソモレキュラー学会に参加しました。オーソモレキュラーとは栄養療法のことですが、まずは医師会、歯科医師会、製薬会社などに支配されることのない本当の医療。食べた物が身になる、すなわち、細胞を作る栄養が日本人のポテンシャルをもう一度輝かせる方向への第一歩となるのではないかと私は考えます。すべては食の見直しから。