質問: 「らくなちゅらる」というコンセプトをよく書いてありますが、よくわからないという印象があります。もっと丁寧に説明していただけませんか? 石川県 T様 |
答え: これは私の造語ですから、私が説明しないといけませんね! 本誌のタイトル部分には、以下のように説明しています。『らくなちゅらる』とは、「自然に沿って楽(らく)に生きることは楽しい」、つまり無理せず天地自然の法則・リズムに沿って生きることを提案するプレマ発・日本発のコンセプトです。 もっと端的にいうならば、私はこの言葉に「……ねばならない」という考え方に対する逆説的な意味を持たせたつもりです。ナチュラルな暮らしに目覚め始めると、なぜか非常に攻撃的な論調になってしまうことがあります。たとえば「部分しかみない西洋医学はダメだ」とか、「穀物を主体に、特に玄米を食べないなんて考えられない」とか、「食べ物は酵素がすべてだから、生じゃないと意味がない」、さらには「石けんこそが安全な洗浄剤で、いくら天然由来でも洗剤は許されない」……例をあげるときりがありませんね。 ここでは紙面の関係で非常に断片的な書き方をしていますから、これらの主張がほんとうに意味するところは実際にはもっと深いことであるのは理解しています。しかし、残念なことにナチュラルライフの探求の過程では この言葉を考えた2005年当時、世間ではなんにでもLOHAS(ロハス)の大合唱が始まったときでした。 ロハスと書けば評価され、儲かるんだというようなコンサルタントも出てきたときでしたから、なおさらに鑑別眼が必要とされるときだったのです。ウィキペディアの最新の記述によれば、 と、かなり懐疑的な説明がされていますが、当時はこれこそが環境と健康を守る最先端の生き方のように用いられていたのです。 そんな折、私はこのような外来語を持ち出さなくても、日本人はもともと和を尊び、個人よりも全体を尊重する生き方をしてきたと考えていました。自然と調和するということは、まさに同じベクトルの延長ではないでしょうか。 持続可能ということは、個人的な生活が自然界の法則と結びついたときに可能になると。これらの保守的な価値観がグローバル経済のもとでは邪魔な価値観だとされたこともありましたが、これほど東洋人として誇るべき資質はないと当時も今も思っています。自らの主張を声高に押し通さなくても、内的な対話を軸として、調和のなかでそれを探求することも、気づきを得ることも可能だと思うからです。もっと踏み込めば、愛とはまさにこのようなことをいうのではないだろうかとも感じています。 私が好きな考え方に「まず学び、深く落とす。そしてそれらを一度手放して、それでも内側から沸き上がってくるものを大切にする。」というものがあります。食や健康、環境などに関しての知識は決して無駄になるものではありませんが、対立や相互不信の原因となってはお互いに生きにくく、そして生命エネルギーを浪費してしまうものにもなり得るのです。目の前に起きている(快、不快と感じる)現象は、すべて私たちに学びをもたらすものです。多くの化学物質が体に毒になるのは事実ですが、その毒がなぜ存在しているのか。もし神仏がいるのなら、こんなに世の中は小汚くないはずだと思うことで 楽に生きると、楽に生きられる……それだけでは、日和見的に聞こえるかもしれませんが、そこには情熱という種子が必要です。さらに、この時間軸は非常に長いのです。 今日明日に周りがどうなるものでもありません。 それには時間がかかります。しかし、内側の気づきは一瞬のことです。お互いが楽に(ピュアに)生きられる社会を、個人が楽に(ピュアに)生きられる生き方を、お互いに情熱をもって生きていきましょう! |