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農業ルネッサンス元年

川平 俊男 (かびら としお)

1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

【Vol.65】甘い砂糖の苦い歴史

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 さとうきび栽培及び砂糖の歴史について宮古(島)だけでなく、奄美の「黒糖地獄」、ヨーロッパによるドレイ貿易、カリブ海の島々、中南米、アフリカのプランテーション農業まで考えてみたい。

奄美・琉球における黒糖栽培の違い
 文化的には奄美琉球とひとまとめにされる場合が多く見られるが、さとうきび栽培を通して見直すと歴史も文化もちがい過ぎる。奄美地域は17世紀初めに中国から黒糖生産が伝わり、製糖技術も改良され、普及していった。しかし、そのために「黒糖地獄」の悲劇を生んだ。沖縄地域には15世紀頃伝わったとあるが、黒糖は貴重品であり、生産流通はきびしく規制された。先島(宮古・八重山)地域は奄美地域で栽培が普及していった頃から明治期まで、人頭税制下のため栽培していない。農民たちがドレイ状態におかれ、徹底的にしぼり取られたことは奄美地域も先島(宮古・八重山)地域も同様であるが、さとうきび栽培の役割は正反対である。
 明治期に人頭税が廃止され、圧政から解放された宮古(島)の農民たちにとって、さとうきび栽培は新しい時代を切り拓く第一歩であった。しかも栽培も販売も自由であった。農民たちはさとうきびや黒糖を生活のあらゆる面に活用した。収穫や黒糖生産のために「結(ユイ)」集団をつくり、畑作業だけでなく、生きるために助け合った。つまりさとうきびは宮古(島)の社会を前進させる力だった。

 一方、薩摩藩に栽培から黒糖生産まで徹底的に管理され収奪され、「黒糖地獄」に突き落とされ苦しみにあえぐ奄美の農民たちにとって、黒糖は非常に苦かった。江戸時代、薩摩藩は幕府から木曽川の治水工事を命じられた。江戸から最も遠方にある薩摩藩は参勤交代などの費用がかさみ、財政は弱体化していた。その工事費用は藩の年収の数倍であり、借金して工面しても金利だけで年収の3割から4割負担になり、藩財政を圧迫した。藩は当時貴重品だった奄美の黒糖に目をつけ、その利益を独占した。17世紀初めに武力侵略し、支配していた琉球を窓口として海外貿易をさせ、その富をかすめ取った。薩摩藩は奄美の農民たちの苦しみの上で甘い汁を吸い続け、藩財政を強化していった。幕末には歴史の表舞台に登場し、長州藩と共に倒幕勢力の主力となった。それは明治新政府樹立後も続いた。しかし、新しい時代から奄美はとり残された。つまりさとうきびは奄美の社会の前進を阻む壁となり、停滞させる力となった。

海外における砂糖の歴史
 「黒糖地獄」の中での奄美の農民たちの苦しみはカリブ海の島々及び中南米のさとうきびプランテーションで強制労働させられたアフリカ人ドレイたちの苦しみに通ずる。さとうきび栽培の歴史は古いが、栽培地域や流通量は限られていた。しかし砂糖精製技術開発が進み、砂糖(白糖)の大量生産が可能となると、上流階級のぜいたく品だった砂糖が庶民の日用品になり、用途も拡がった。17世紀には砂糖はコーヒーなどと共に世界商品となった。さとうきびは熱帯産作物のため、大量生産が可能な地域は限定される。コロンブスが発見(?)、その後ヨーロッパの国々が勝手に分割支配していたカリブ海地域は最適地の一つであった。比較的大規模プランテーションが可能なキューバや、もっと大規模化が可能なブラジルなどもあるが、宮古(島)や奄美と比較すると大き過ぎるのでここでは取り上げない。

 人工が約40万、面積が沖縄島とほぼ同じ、マルティニック島や小さな島々が点在するグアドループ地域(両方とも現在フランスの海外県)が私たちには親しみがある。さとうきび栽培は大量の労働力を必要とするが、先住民たちはヨーロッパ人によって全滅させられた。移民、出稼ぎ、囚人労働でも不足したため、アフリカから大量のドレイを入れた。ドレイ貿易とドレイ制と植民地主義流通の独占等により、一部の特権的商業資本家は莫大な富を蓄積していった。「重商主義」「三角貿易」。その力はフランス大革命、イギリスの産業革命の原動力となる。それらが生みだした人権思想や工業製品の大量生産、世界的商品市場の拡大は自由貿易を必要とし、重商主義やドレイ制は廃止されていく。しかし植民地主義は現代まで尾を引いている。宮古・八重山・奄美・カリブ海地域は自立をめざして悪戦苦闘している。


川平 俊男

川平 俊男氏
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

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- 農業ルネッサンス元年 - 2013年2月発刊 Vol.65

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