質問: 3歳の男の子の母です。すっかりやんちゃになってきた子どもに対して、夫やそのご両親は、「躾はとても大事」といって大変厳しく育てようとします。よく激しい言葉で息子を叱責するので、それを見ていてそこまで厳しくしなくていいのに、と思っています。そしてよく躾を巡って夫婦喧嘩になります。沢山子どものおられる中川さんはこのことをどのようにお考えになりますか? 岩手県M様 |
答え: ご主人も義理のご両親も、大変厳しい方のようですね。おそらく、お三方はMさんにも厳しいのではないでしょうか。だから余計にお子さんに対する言葉がMさんの心にも刺さってくるのではないかと推察しています。私はまだ成人した子を持っていませんので、お答えするのに適切な人間かどうかはわかりませんが、一つだけわかることがあります。私の第一子と先日うまれた第五子との年齢差はざっと14年、つまりすごく離れているのです。今思えば、最初の子を育てるときには「躾が大事」などといいながら、自分が子どもに向かって発する言葉を吟味することもなく、かなり感情的な子育てをしたという反省があります。そのとき私は26歳でしたが、今は40歳に近くなり、当時を振り返ると「なぜあんなことで怒っていたのか」と思うほど未熟なものでした。もちろん当時も憎いから激しい言葉をかけたわけではなく、躾と信じてやっていたわけです。けれども、それを差し引いても「言い過ぎだった」と思い出すことが、やんちゃ盛りの4子をなだめるときにも沢山あります。 ここがとても難しいところで、やっている本人は躾や愛のつもりであっても、それを超えていることがあり得ます。他人様の子どもが、外で親に激しく叱られている(怒鳴られている?)ところを非当事者として見ていると、よくお感じになるのではないでしょうか。このベースというか、境界線にある認識の差について考えてみますと、そこには『子どもはそもそも完全な存在か、それとも未完成で未熟な存在か』という前提の差があるように思うのです。私は親として14年、そして経営者として10年ほど、人を育てる現場にいて、この認識の差はとても大きなものであることを感じてきました。確かに、小さい子どもは大人の想像を超えることをやってくれるものです。だからといって、それが大人に比べて子どもがより劣っている証拠とはなりえないように思います。 変な話で恐縮ですが、いろいろな経営者の方とお話しをしたり、その後のおつきあいをしていますと、非常に面白いことがわかってきます。その方の親、とくに父親が社会的に立派な肩書きをお持ちの方で、幼少期に厳しく育てられた方の場合には、なぜか経営がうまくいかないケースが多々あるようなのです。これはいろいろな側面で現れることがあって、単に売上げが伸びないというような表面的なことだけではありません。じっとその問題の本質を考えていますと、特徴的な共通項があるように感じていました。 ?問題解決のプロセスに致命的な問題がある 箇条書きにすると、とても鮮烈に見えてしまい、書くこともはばかられるくらいですが、このことは我が子が通っているかつやま子どもの村小・中学校(本誌でも連載いただいています)堀真一郎先生の講演を聴いたときに確信に近いものになりました。先生は体験によって子どもの主体性を伸ばすことを目的とするこの学園を興す前に、大学で幼児教育の研究をされていたときに、いろいろな親と子どもの発育の関係、とくに自己決定の能力の関係について研究されていました。先生は木工などの手と頭の両方を使うカリキュラムで、子どもが作りたいおもちゃを考えてもらい、それを実際に作るという課題を与えます。「その実現に向かうプロセスは一切教えないで、子どもが自ら見いだすまでひたすら待つ」というのが先生のやり方で、工具の使い方から素材や立体の組み合わせまで、見本はあっても、どうやってということは何も教えないのです。 この課題において、子どもは大きく分けて2つに分かれるそうです。ひとつは、「答えを知りたがり、とにかくやり方を大人に聞こうとする子ども」、もうひとつは「答えや方法を聞くことはせず、周りを観察しつつ全身全霊で取り組む子ども」だそうです。先生はさらに観察を親と子の関係に広げます。すると、前者の親は「口うるさく指図する親」であり、後者は「溺愛に近いほど、子どもを信頼する親」だったというのです。つまり、コントロールしようとする親と、コントロールをあえて手放す親、とも言い換えられるかも知れません。 親であれば、子どもに最善のことを教えてやりたいと願うものです。ただ、その思いとは裏腹に、そのやり方が間違っていると出てくる結果はまったく違うことになります。老子は、『授人以魚, |