東日本大震災から10年が経っても、依然として解決に向かわないのが福島第一原発事故の問題。廃炉までは数十年と気が遠くなる道程で、その風評被害も収まる気配がありません。しかし震災直後から懸命に努力している人たちがいます。プレマが被災地支援の一環で、放射線測定器を贈呈した「NPO法人 ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」です。安心・安全な農業をふたたび、この手に。理事長の熊谷耕一氏に協議会の取り組みを伺いました。
ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会が、毎年地元の人々とおこなう「だんごさし」の様子。この地域では、昔から旧正月の時期に、だんごをミズキの枝にさして稲の花に見立て五穀豊穣を予祝したそうだ
特定非営利活動法人
ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会 理事長
熊谷 耕一(くまがい こういち)
ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会が掲げるのは、「里山再生プロジェクト~日本のモデルケースへ」。そのために取り組むのが、「地域コミュニティーの再生」「農地の再生」「山林の再生」。多様な取り組みが評価され、2017年には日本農林水産祭のむらづくり部門で表彰を受ける。協議会の活動以外では、りんごなどを栽培し、農家民宿も経営。また耕作放棄地や休耕地を生かして育てたりんごやぶどうでワイン&シードルを造る「ふくしま農家の夢ワイン」のオーナー。
ジェラートや〝イカニンジン〟
東和の村には、美味がたくさん
熊谷 東和地域は「中通り」と呼ばれる福島県中央エリアの北部、阿武隈山系の西斜面に位置しています。木幡山、口太山、羽山に囲まれ、狭い谷に沿って集落や畑、棚田が点在するのどかな山村です。昔は福島県安達郡東和町だった地域で、2005年12月の市町村合併に伴い、安達町、岩代町とともに旧・二本松市と一緒になった経緯があります。
そして、ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会は市町村合併の少し前、2005年4月に設立されました。街が大きくなって、逆に東和エリアの個性が埋没してしまうのではないか。そんな危機感から立ち上げられた組織です。同年10月には特定非営利活動法人(N P O)の認証も受け、活動が本格化しました。
その直後に協議会では、地元の道の駅「道の駅ふくしま東和」の運営を受託することができました。減農薬から有機栽培まで、東和エリアの農家が作った「東和げんき野菜」をここで販売しています。協議会の厳しい審査を通った、新鮮な野菜のみを扱います。
また併設する食堂「和食処 みちくさ亭」では、東和エリアを代表する農産品・桑の葉を練り込んだ桑うどんや、東和げんき野菜をたっぷり使った里山カレーなどが人気を博しています。くわえて皮から作る点心が自慢の「中華料理 大栄餃子房」もあります。小籠包のような丸い見た目の「特製焼き餃子」は、皮はもちもちで餡もぎっしりと。噛み締めるとジュワッと肉汁があふれ出します。これも非常に食べ応えがあると評判です。
子どもたちに人気なのが、「手作りジェラートショップ NATURE」。バニラなどの定番の味だけでなく、地元の特産品である桑の実や桑の葉のジェラート、ちょっと変わったところでは、季節限定でからし、きゅうりなどもあります。とくに夏休みは家族連れで賑わいます。
――なんだか、美味しそうなものばかり。コロナ禍が落ち着いたら、食べることだけを目的に東和エリアへ出かけたくなりました(今回の取材は、新型コロナウイルス感染拡大の状況を鑑みて、リモート形式で実施)。
熊谷 ありがとうございます。他にも家庭の素朴な味わいになりますが、福島県の中通りには「イカニンジン」という郷土料理があります。細く切ったニンジンとスルメイカを醤油やみりん、酒などの合わせ調味料に漬け込んだ一品です。北海道の松前漬けに似た料理といえば、わかりやすいでしょうか。東和ではお正月に欠かせない一品ですが、意外と常備しているという家庭も多いです。お酒のつまみに最適で、県外から来た方にも好評です。
また「ざくざく」も二本松周辺エリアの伝統料理です。ニンジン、ダイコン、ゴボウ、コンニャク、鶏肉などをザクザクとサイの目に切って具材にした汁物で、醤油、みりん、塩などで味を付けるのが一般的。新鮮な東和げんき野菜で作ると、滋味深い一杯になります。
「これら東和の味わいと、里山の魅力に気軽に触れていただきたい」。ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会では、2008年に東和地域グリーンツーリズム推進協議会を立ち上げて、「農家民宿」にも力を入れています。
原発事故がもたらす影響は?
作付け前に懊悩する里山の人たち
――道の駅を運営しながら、グリーンツーリズムの推進まで手掛けておられる。さまざまな側面から地域振興に携わっておられるのですね。
熊谷 わたしたち協議会の本部は道の駅にありますが、この場所はもともと東和町活性化センター「道草の駅 あぶくま館」という施設でした〝ひとづくり〟〝まちづくり〟など、地域社会の活性化を目指して建てられた場所なので、道の駅に登録されても会議室があります。全国的に見ても、ミーティングルームが備わった道の駅は珍しいのではないでしょうか。地元の交流の場としても活用されています。
この会議室を利用して協議会では、東和げんき野菜の生産者会議や視察の受け入れ、また農家民宿の開業を希望する方に向けて、旅館業法や食品衛生法などの研修をおこなっています。農業を生業とする東和地域にとって、東日本大震災はビジネスモデルを再考する大きな契機となりましたが、たとえば「東和地域グリーンツーリズム推進協議会」立ち上げの4年後、2012年には7軒が農家民宿の免許を取得。ここ10年間でも、約8000人が農家民宿を利用していて、これは市町村合併直前の東和町の人口(7787人)と、ほぼ同数です。
滞在した方は、人の手による昔ながらの米作り、畑の耕作を体験します。春はタラの芽やフキノトウ、夏はキュウリやトマトにナスなどの収穫を体験し、旬の東和げんき野菜の美味しさに感動してくださいます。
なかには体験がきっかけとなって、移住を決めた方もいます。里山の魅力に惹かれて、遠くイギリスから新規就農者として東和に来られた方も。協議会では、就農者向けに住居の確保から農業支援まで全力でバックアップしています。
日本全国の里山が、過疎化の問題を抱えています。東和でも昔は7校あった公立の小・中学校が、いまは各1校ずつしかありません。高校に通学するにも、家族に車で30分かけて最寄りの駅まで送ってもらって、電車に乗り継がねばならない。大学、そして就職となると東和を離れる人がほとんどで、今では高齢者率が4割を超えています。
過疎の里山が抱える3K、「高齢化」「休耕地」「耕作放棄地」の問題が、ここ東和でも深刻化しています。お年寄りが増えているのに、人口減で町には歯医者と小規模なクリニックしかなく、十分な医療施設がありません。「絶対に病気にかかってはいけない」。多くの高齢者が不安を抱えて暮らしています。
新規就農者は、東和の希望なのです。里山の生活を体感できる農家民宿の推進は、今後も協議会の大切な責務です。また東京などでおこなわれる「新・農業人フェア」といったイベントでも、東和の農業の魅力を発信しています。
――熊谷さんの口から「東日本大震災が大きな契機に」との言葉が出ました。今年3月で10年が経ちましたが、震災で東和の町は変わりましたか?
熊谷 津波の被害が大きかった浜通り(福島県の太平洋側の地域)と違って、東和では震災の人的被害はありませんでした。停電、断水、墓碑が倒れるなどのダメージはあったものの、建物の倒壊は二本松では2軒ほどだったと記憶しています。
ただし震災後1週間は、町のみんながテレビに釘付けでした。福島第一原発の水素爆発を目にしたときには、私も不安で胸騒ぎがしました。原発から50 km離れた東和に、いかなる放射能の影響があるのだろうと不安だったのです。
その直後に二本松市で、原発の近隣自治体・浪江町から、約4700人の避難者を迎えることになります。東和でも体育館や公民館を開放し、少しでも寛いで過ごしていただきたいと、炊き出しや生活支援をおこないました。私も1ヶ月ほど、避難してきた方のサポートに奔走しました。
そして2011年も4月半ば。田植えの季節の到来です。農作物への影響を心配して、協議会では約80カ所で空間線量を測定しました。結果、「よし、今年も作付けしよう」。大激論の末に、そう決めたのでした。
案ずるより産むがやすしの精神、
測ることで安全を確保する
「東和で安全に暮らせる方法を考えよう」。それが協議会の総意でした。放射能から逃げずに、里山の農業を守っていきたい。そのために専門家に相談しました。
2011年5月に、日本有機農業学会の現地調査団20人が来訪します。新潟大学教授の故・野中昌法氏を中心としたチームと協議会の実地調査が始まりますが、その際に活躍したのが、プレマ基金が支援してくださった放射線測定器でした。当時の価格で500万円はするであろう代物は協議会で用立てられるものではなく、プレマさんには感謝しています。
その年の夏野菜、そして秋の新米など、片っ端から東和で実った農産品の放射線量を測っていきました。すると野生のキノコを除けば、どの場所で獲れた米も野菜も、当時の国が定めた食品の暫定基準値(1kgあたり500ベクレル)を下回っていた。翌年4月に基準値が1kgあたり100ベクレルに変更になりますが、それでもこの値も超えません。ちなみに同年、福島県が米の全量・全袋検査を始めますが、基準値を超えたのは約1000万袋のうち71袋のみ。99・8%もの米が、25ベクレル未満だったそうです。
また協議会と調査団で、東和の田んぼ1200か所で地表1cmの放射線量を測ってみました。なかには1000ベクレル以上を示す地点もありましたが、収穫した米からは100ベクレルを超えるものはありませんでした。
土壌学が専門の故・野中教授は「土には、飛散していまも残る放射性物質のほとんどを占めるセシウムを吸着・固定する力がある」「放射性セシウムは、性質の似たカリウムが豊富な土では植物に吸収されにくい」との見解を得て、そのメカニズムを東和の農家に説明してくださいました。私たちはとりあえず不安を振り払って、仕事に打ち込めるようになったのです。故・野中教授のチームはその後、南相馬市や飯舘村にも調査範囲を拡大、福島大学と連携して研究を進めることになります。
――しかし原発事故の影響が定まらないなか、作付けを決意した当時の協議会の決断力たるや。この行動が、東和の農業を守りましたね。
熊谷 そうですね。まずは作付けして、収穫したら放射線量を測ることにしたんです。そして今まで協議会では、「すべて測る」を徹底してきました。
当時、国は「山の水は使うな」「深く耕せ」「(セシウムを吸収する)ゼオライトを撒け」と指導しましたが、場所によって放射線量は異なります。十把一絡げにはいかないんです。収穫物の放射線量を測ったほうが早いともいえます。
ともあれ福島の農業は、まだ回復の途上です。リアルな情報を知っていただくには、グリーンツーリズムによる体験が有効です。今はコロナ禍で移動も難しいですが、ぜひ事態が収束したら、のどかな里山・東和の町にお越しください。