決めないと動けない癖は、
「考えて行動しなさい教育」の弊害じゃないか?
子どものころ、ブロック遊びが好きだった。レゴブロックと言えばわかりやすいかもしれない。直方体のシンプルなブロックをつなぎ合わせて車や動物、家などの形を作っていく遊びだ。
今の私がブロック遊びをするなら、まず「なにを作ろうか?」と考えるはずだ。ブロックの数を計算して、そのなかで作ることができそうな形を探そうとするだろう。しかし、子どものころの私はまるで違った。とりあえずブロックを感覚的につなぎ合わせていく。ある程度ブロックが塊になったところで、それをいろいろな角度から眺めたり、触ったりしてみる。すると、形が見えてくる。「よし! 飛行機だ!」形が見えたら、思い描いた形になるように作っていく。「このブロックの出っ張りをうまく羽の形にできないだろうか?」と試行錯誤するのも大好きだった。そして、ブロックが足りないなどの課題をクリアしながら、私にできる最大限の工夫を凝らした飛行機が完成するのだ。
今はなにかを始める前に、目標やゴールを決めて、そこへ向かうために手段を考えたり、スケジュールを考えたりする。できるだけ失敗しないように、起こるかどうかわからない未来の可能性を心配したり、できない理由を探したりする。考えを巡らせているばかりで、いつまで経っても始められないのだ。「一寸先は闇」というように、いつどこでなにが起こるかわからないのに、先の目標やゴールが決まらないと動けなくなってしまう。まるで目的のない自由な旅に憧れているのに、目的地がわからない電車に乗るのを怖がっているようである。
最初から飛行機を作ろうとせず、とりあえず手を動かしてみる。なにができるかはできてからのお楽しみ。できあがりを心配するのはさておき、作るプロセスで起こってくるアイディアという偶然性を、子どものころのように楽しめるようになりたい。目的地が決まると道筋がたてられて安心かもしれないが、目的地に着いたらまた次の目的地を探さなくてはいけなくなる。もうこのループから抜け出したいのだ。そのためには、考え込まずにとりあえずやってみること。そうすれば経験や視点、感覚を最大限に活かした飛行機を作れるようになるのではないだろうか。と書いたところで、「また飛行機を作るって決めちゃうの?」と妻に突っ込まれた。このループから抜け出すのはなかなか難しいようだ。