自身の喜びから生まれたなにかで、
誰かが喜んでくれる
近所にカフェをオープンしたおじさんがいる。コーヒー好きが高じて脱サラをしたそうだ。コーヒーだけでなく、パンやクッキーなど他のメニューもあるのだが、注文すると「美味しいかわからないけど」と言ってオドオドしながら出してくれる。好きで作ってみたものの、お客の評価が気になっているのかもしれない。「美味しいよ」と返すと、おじさんはものすごく嬉しそうな顔をする。それを見て私も嬉しくなるのでまた来たくなってしまう。好きなことにチャレンジしようとするおじさんを応援したくて、何度も足を運んでいる。
去年から私は抽象画を描き始めた。まだうまく筆が使えないが、ブラシやスポンジ、指など、そのときのアイディアでいろいろな物を使って、上手下手関係なく、好きなように絵の具で描いていく。キャンバスの上で混じった絵の具の色が感動するようなグラデーションを生むことがあったり、絵の具のかすれ感が心地よかったりする。抽象画を描くことは、その場のアイディアを活かす即興と偶然性のなかに自身の「好き」を発見し、それを積み重ねていくことのように感じている。
意図的には作り出せない偶然が生み出す絵ができあがると心の底から感動する。その感動を伝えたくて、家族や友人に絵を見せたり、部屋に飾って見たりしては「自分は天才だ」という気持ちに浸っている。自意識過剰だと思われるかもしれないが、自分で天才だと言っても誰にも迷惑はかからないし、最高に「自分をごきげんにする」ことができる。暗いニュースや不安になる状況、制限ばかりが増えていく社会のなかで、身体も心も窮屈になっていくばかりだ。いかに自分をごきげんにできるかで、同じ状況のなかでも物事の捉え方が変わって、より心地よく生きられるのではないだろうか。
先日、さらなる感動があった。私の絵が売れたのだ。「すごく好きな絵だから、もっと絵を描いてほしい」と言ってくれた。私を応援したいという気持ちが強く伝わってきて、それがとても嬉しかった。自身の喜びから生まれたなにかで、誰かが喜んでくれる。私はこの「喜びの循環」をやりたかったんだと気がづいた。
今日、前出のカフェにコーヒー豆を買いに行った。オドオドしながら「自分の好みでブレンドしてみた」と言ってジップロックに入ったコーヒー豆を渡してくれた。商品としての見た目は滅茶苦茶だけど、ここにはおじさんの好きが詰まっている。