ゆばは「大豆と水、心と技」と話す、八木幸子氏。滋賀県の比叡山の麓で家族や従業員とともに大切に作り続けてきました。もともと精進料理や懐石料理の食材だったゆばを、日常の食材へ、さらには世界の食材へ。夫亡き後に、三代目社長としてゆばを広めるべく奔走してきた半生について伺いました。
持ち前のひらめきとバイタリティが人気。地産地消の取り組みや障がい者雇用による福祉との連携などが評価され、2006年に内閣府の女性のチャレンジ賞を受賞。2022年の春の叙勲では黄綬褒章を受賞した。
「山の坊さん なに食うて暮らす ゆばのつけ焼き 定心坊」
比叡山山麓に残るわらべ歌には、ゆばが登場します。比叡山にこもって厳しい修行をする僧侶たちにとって、ゆばは大切な栄養源であり、精進料理には欠かせない品でした。
昭和15年に、義父母が大津で「ゆば八商店」を創業しました。八木家のご先祖様は孝明天皇にお仕えしていた関係で、天皇にゆばをお出ししたときの小皿が家宝として残されています。ゆば作りは、夏は暑く、冬は寒い工場の中で、肉体的にも過酷な作業ですが、ゆばとの深い縁と歴史を拠り所として、家族皆でゆばを愛し、ゆばを誇りに思いながら家業を営んできました。後を継いだ夫は「日本一のゆば屋になる」と志を立て、比叡山延暦寺御用達の「比叡ゆば」として、ゆばのブランド戦略に尽力しました。「商品には夢と遊び心がなくては」が口癖で、ゆばを精進料理や懐石料理だけでなく、家庭の食卓に載せていただくために、これまでになかった新商品を次々と開発していったのです。全国各地の催事にも出店し、ゆば作りに営業、商品開発と、なんでもできる人でした。
夫とはお見合いで出会い、その月のうちに結婚式を挙げるというスピード婚でした。私は商売人に嫁ぐのが願いでしたから、夫と心を重ねて二人三脚で歩もうと決めて、仕事を支えていました。ところが、彼はある日突然、亡くなってしまった。平成5年に現在の新社屋を建設した翌年のことでした。最初はもうパニックです。でも、当時高校生の長男が事業継承するまでは私が中継ぎ役に徹しようと覚悟を決めたんです。三代目社長に就任し、それまで珍味という限られた世界で扱われていたゆばを、家庭の食卓に載せる、そして世界の食材にするという夢ビジョンを描きました。ゆばブームを起こすための仕掛けとして、まず観光客向けに、工場で出来立てのゆばを食べていただく「ゆばあげ体験見学ツアー」を企画しました。私は動く広告塔になって、メディアには積極的に出ていきましたし、全国各地で私の講演会もおこないました。講演会は一度やると、面白いからうちにも来てという形でつながり、この20年間で600回以上やっています。さらに、子どもたちにとっても身近な食材となるよう学校給食に入れていただいたり、料理講習会をしたり、本を出版したりと、ただ思いつくままに、いろんなご縁に導かれるままに歩んできました。
社長になって最初の3年間は辛くて涙することが多かったけれど、お客様や従業員、家族や地元の友人たちに支えてもらったことは本当に感謝しかありません。
夢を叶えるには「念ずる」ことがとても大切です。私は終戦直前の生まれで、栄養不足のためか体が小さくて病弱な子どもでした。でも強くなりたくて、中学校でバレーボールに打ち込んだおかげで、身長も伸びて丈夫な体になったんです。その頃から「念ずれば夢叶う」が座右の銘です。「念」の字は、今の心と書きますね。今の心は純真無垢な子どもの心。そして天空をカンバスに見立てて、具体的に明確に、厚かましくこうしたいと願うと、まさに宇宙のメッセージで、なにをすればいいか、ひらめきが降りてくるんですよ。
ゆばを世界の食材にするために、運命ともいえるのが、世界のスーパーシェフである松久信幸氏(通称ノブ・マツヒサ)との出会いです。貿易商社を通じてロンドンのノブさんのレストランにゆばが届いていることを知り、ぜひお会いしたいと思っていたら、不思議な縁でお会いすることができた。その後、日本語のレシピ本に「比叡ゆば使用」と記載していただいたり、ノブさんのディズカバリーチャンネルで、滋賀県を舞台に花見をしながらゆばを使ったフルコースを世界のシェフに召し上がっていただく場面を放送していただいたりと、おかげさまで世界にもお届けすることが叶ったのです。私は、懐石料理とフランス料理には通じるものがあると思っていたので、フランスのパリでゆばを使った料理を振る舞うことが長年の夢でした。それが滋賀県人会のパリ大会でついに実現し、フランス人シェフによってゆばが素晴らしい料理に変身した。皆さんが喜んでくださるのを見て、大粒の涙がこぼれました。
その気になれば不可能はない、と思います。その気とは、自分でやろうと思わずに、天の気を味方につけること。世のため人のためにお役立ちして、天が喜ぶ生き方をすると運がよくなります。できないというのは思い込みで、本当は存在しないんです。私はよくプラス思考だねと言われますが、もともとは完璧主義で超マイナス思考の人間でした。でもそれだと自分も周りもしんどいんですよ。1999年に、9が3つでサンキューだなとひらめいて、それ以来、私はありがとうモードに切り替えたのです。ピンチはチャンス、どんなときも「ありがとう」が魔法の言葉です。他人と過去は変えられないけど、自分と未来は変えられる。それも明るく、楽しく。だから極めて楽しいことを極楽といいますね。
現在は息子が四代目社長としてがんばってくれています。私はせっかく名前に「八」と「幸」がつく名前をいただいたので、これからも幸せの八福神ならぬ八福人として、この世のお役目である幸せのメッセンジャーであり続けたいと思います。