「私たちは椿の魅力にひかれ、苗木づくりから始めました。同好者で『宮古島椿の会』を結成し、『花の宮古』推進事業を機に活動は拡大し、また多彩になりました。佐渡山初代会長は『宮古島市の市花木選定にツバキを』と市に要請しました。来間第二代目会長は椿の植栽普及に努力されました。二人の功績を継承発展させ、椿を宮古(島)の産業、文化の礎として定着させたい。椿は台風の島宮古(島)に最適な花木であります。宮古(島)を椿の島に!!」砂川次郎第三代目会長の力強い宣言で宮古島椿の会主催の「第七回椿まつり」が幕を開けました。二月八日、九日、二日間。会場は会長が運営するジロー楽園でした。会長あいさつの後、佐渡山政子事務局長の司会で開幕式が進められました。地元の新聞、テレビ、県紙、その他の大勢の報道陣がかけつけました。新役員の紹介、活動報告、会場案内、展示物案内が続きました。 会員が手塩にかけて育て上げた盆栽が会場の中心に展示され、色とりどりの花を咲かせていました。搾油したてのツバキ油もきれいな化粧ビンで展示販売され、また会員による椿の苗木や野菜などの販売もありました。宮古そば、コーヒーなどの飲食コーナーも設けられました。ジロー楽園全体に植栽された椿が花開き、壮観でした。ツバキ油搾油機、乾燥機も備え、砂川会長の椿の島づくりへの意気込みが感じられました。特別企画として、一葉式生け花の会員の作品展、上地慶彦さんの川柳展、砂川泰彦さんの絵画展がありました。上地義彦さんは川柳集を出版され、新聞にも度々紹介され、その世界では有名な方です。一葉式生け花宮古島支所を主催する斉藤さんの作品はサトウキビを用いてミャーク世を創り出していました。会員の方々も椿をはじめ様々な素材を用いて独自の世界を表現していました。砂川泰彦さんの絵画は椿を含む宮古の風物を描いていました。本人に取材する機会がありました。
砂川さんは七年前にパーキンソン病を発症しました。当時の砂川さんは自分の体の各機能が急速に衰えていく状況は自覚できるが病名も治療法もわからぬまま、仕事も辞め、失意のどん底にありました。数年後にパーキンソン病と診断され、しかもその中でも悪性で数年でことばは使えなくなり、全身の機能が止まっていくと言われ、人生に絶望していました。しかしある時、子どもの頃から絵を描くことが好きだった話をすると、体の機能がマヒするまでは絵を描き続けたらと勧められ、さっそく始めました。ここ数年、絵に没頭し、病気の事も忘れてしまうぐらいです。個展も開きました。すると不思議な現象が起こりました。病気の進行が止まったように思えるのです。むしろ少し症状が良くなったように感じられるほどです。医者は医学では解明出来ない、奇跡が起こったと驚きました。私は初対面でしたが、パーキンソン病者だと紹介されるまでは気付きませんでした。「絵を一人で描くだけでなく、その絵を多くの人たちに観てもらい、話を聞く機会が増える事が生きる力になっている」と最後に砂川さんは話されていました。
椿まつりでは多くの多彩な人たちとの出合いがありました。会長に紹介してもらった、埼玉県でギャラリー「グルグルハウス高柳」を運営されている桑原さん夫婦は、なんと「らくなちゅらる通信」をお持ちでした。嬉しかった。自然栽培の話をしました。
川平 俊男
川平 俊男氏 1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。 |
プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト』 宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。 |