秋から冬にかけて、例年であれば各地で市民マラソン大会が開催されていたころでしょう。人気のあるマラソン大会であれば、通常は春先には募集が始まり抽選を経て、夏前には参加の可否が決まります。今年は新型コロナウイルスの影響で早々に中止の発表がされ、「走るモチベーションがなくなった」との不満の声を聞きました。
「次回までの準備期間が1年半に延びてよかったじゃない?」と声をかけて、「そう思って走り続けている」という人もいれば、「そんな気にはなれない」という人もいます。切り替えられるかどうかは人それぞれです。
しゃあない
「しゃあない」。この関西弁が、私は好きです。どうすることもできないことを仕方がないと受け止めつつも、角ばらず柔らかみがあって、別の方法へと切り替える前向きさも感じます。
マラソン大会が中止なのは、しゃあない。文句を言ったところで決定が覆ることはまずないでしょう。だったら来年へと気持ちを切り替えるほうがいい。次の本番までの残り1年半を、わずかなもったいない時間と思えるかどうかですね。
そもそもなんのために大会に参加するのか。楽しみ方は人それぞれですが、大会とは決してゴールではなく、現在の自分の力を計るための通過点に過ぎないはず。開催されないからと走ることをも止めてしまうのはもったいない。「しゃあない」と切り替えて次の目標を持ちたいところです。
体力というのは使えば使うほど身につきます。お金のように使わずにいて貯まっていくものではありません。動けば得られる、使わなければ減っていくのが体力なのです。
人は絶望する生き物
新型コロナウイルスの影響で、自ら死を選ぶ人が増えています。新型ウイルスで半年間で亡くなった人の数を8月の自死者の数が超えました。仕事を自粛せざるをえなかったことで、生き方を問いたくなった人もいるのかもしれません。想像もしていなかった現実と向き合った人もいるでしょう。感染が拡大していったなかでは、病とか死について、これまで以上に意識した人も多かったのではないでしょうか。
生老病死を仏教では「四苦」といって、人間の根源的な苦しみとされています。このうちの「病」と「死」と向き合わされたことで、逆に「生」にフォーカスすることはできないでしょうか。
人は想像する生き物です。哲学者パスカルの残した「人間は考える葦である」という言葉の通り、考えるのは尊い力。考えることで、明るい感情を引き起こしたり暗い気持ちを引き起こしたりと心が変わることもあります。過ぎ去った過去を想うこともあれば、まだ来ぬ未来を想うこともあるでしょう。考えすぎるがゆえに絶望してしまうこともあるでしょう。絶望とは、望みをなくすこと。未来の可能性はまだあるはずなのに、それをなくしてしまうのは悲しいことです。
自然界では人間以外には絶望する動物はいないといいます。野生動物が獲物を取り損ねたからと未来に絶望して崖から飛び降りることなど聞いたこともありません。生きるために次の獲物を探します。動かないと得られない。その切り替える姿勢から学ぶこともありそうです。失敗することがあっても、その次にまた失敗するとはかぎりません。やってみないとわからない。「しゃあない」と切り替えることができれば絶望はしないでしょう。
「創造」は「想像」からといわれます。思い描ければ、創り上げることもできます。明るい未来を描けば、きっと明るい明日がやってくる。そして失敗を「失敗」として繰り返すのではなく、「経験」として積み重ねるためにこそ、考える能力を使いたいものですね。