正しさの表と裏
「正論は正しい。だが正論を武器にする奴は正しくない。お前はどっちだ?」
数年前の映画『図書館戦争』のなかに、こんなセリフがあります。どんなに正しいことであっても、それをゴリ押しするのではなく、相手の気持ちになってみることも大切ですよね。また、10年以上前に参加していたセミナーの最中に、演者が参加者の一人に向かって「あなたは子宮の病気のようですね」と語りかけるという耳を疑うことがありました。多数の参加者の面前で、婦人科系疾患を言い当てられた方の心はどれほど痛んだことでしょう。
望診法を学ぶと、人の体調や体質が見えるようになった気になり、知識をひけらかしたくなる人がいるようです。〝やり方〟だけが広まってしまい、治療者に不可欠な〝寄り添う心〟が抜けてしまう。医療は誰のためにあるのかという本質からかけ離れてしまうようでは本末転倒どころか、害にさえなり得ます。
占いでもそうですが、言い当てられれば当てられるほど、しんどい。さらには「私の言うとおりにすれば大丈夫」といった依存を生み出していきます。他人からの言葉に重きを置いてしまうようでは、もはや自分の人生を生きているとは言い難いでしょう。
「うらなう」とは、もともとは「裏綯う」と書いていたそうです。糸やひもなどを1本により合わせていくこと、つまりは、目には見えない裏側にあるものをつなぎ合せて、表側に見える事情の本質を見ていくこと。修行を積んできた人ほど、はっきりと答えを言わなかったようです。相手の人が気づくようにそれとなく伝える。導くというのは本来そういうものなのでしょう。
思い通りにならないと怒り出す指導者は、自分の正論を振りかざしているだけで、人として正しいことをやっているのではなさそうです。最近ではスポーツの世界でも、コーチングのテキストに選手本人を第一に考える「アスリート・ファースト」について書かれ、勝利至上主義や指導者優先でいることを戒められるようになってきています。
考えずに、感じる
健康のために「季節に沿った生活をしましょう」と伝えると、「どうすればいいですか?」「旬の野菜ってなんですか?」といった質問をされることがあります。なにかをがんばってやらなければならないという思い込みが、ご自身を苦しめています。暑い夏にはシャツ一枚で、寒い冬にはジャケットを羽織って出かけるでしょう。その服装は立派に季節に沿っています。真夏に重ね着する人はいないでしょうし、玄関を出てから他人の服装を見て慌てて着替えるというようなこともないはずです。感じるままに自分で判断し、心地の良いことをやる。無意識のうちにやっていることのなかにも、ヒントが転がっています。頭で考えてもわからないようなときは、体で感じてみる。判断力を磨く一歩と言って良いでしょう。
よそいきの自分
禅の言葉に「随所快活」といって、どんな場所にいても無理をすることなく自分らしく自然体で生きることを目指す教えがあります。誰かに合わせようと我慢や背伸びをする「よそいきの自分」になっていないか、認識してみること。「仮面」で守られることもありますが、思い通りにいかないときに、「こんなに頑張っているのに」「どれだけ我慢してると思ってるんだ」と怒りの感情になって表れてしまいます。
生まれも育ちも違う人同士が関わり合い日々が巡っています。価値観も文化も違って当たり前。思い通りにならないものです。どうせ思い通りにならないのなら、素のままで生きてみる。自由な人同士が寄り添い合うことのできる関係には、依存関係にはない心地よさがあるように思いませんか。