マスク生活も二年を過ぎ、愛想笑いが通用しない世の中になったような気がしています。これまでにも「目が笑っていない」などと取り繕った苦笑いの表情を指す表現がありましたが、顔の下半分が見えなくなることで、目だけでは表情がわかりにくくなってしまったように感じるのです。
「目は口程に物を言う」、「目ぢから」など、目だけでも伝わるコミュニケーションに変わり目がきているのでしょうか。
テレビに映る海外の風景では、マスクをしない人の姿が増えているようです。文化的には、日本人はサングラス姿だと恐怖心を抱くように目が隠されるのを嫌がり、欧米では口が隠れると真実を言わないのではと不安になるのでマスクが避けられる背景があるそうです。
顔に出す特技
子どものころには、感情が「すぐに顔に出る」と親や教師から叱られてきたものです。表情に表れない人のことをうらやましいと思ったこともありました。それも大人になるにつれ仕方のないこととあきらめるようになり、最近ではむしろそれは特技の一つなのではないかとすら思えるようになってきました。
「口は禍の元」といわれる通り、口に出してしまうと取り返しのつかないこともある。「言わぬが花」の通り、物申すよりも黙っているほうが値打ちのあることもある。仮に不快な場面に出くわしても、不快さが顔に出て、さらに続くようならその場を離れればよいこと。相手になにかを求める必要もない。あえて言葉にしないことで自分も相手もイヤな想いをしなくて済む。だったらそれに越したことはないでしょう。顔に出るおかげで、事がスムーズに流れていくように思えるのです。
誰が人を裁くのか
四月下旬、プロ野球でちょっとした騒動がありました。若手投手の投げたボール判定に対して、この投手が不満さを態度に出してしまったことから、それに審判が詰め寄り、球場が騒然としたのです。その後数週間が経過しても、SNSなどで話題が尽きることはありません。ただ野球を深く知る人ほど、そもそもの発端となった投手の態度に注意すべき点があったことを指摘しています。
この騒動を見ていて、無言を貫く潔さのようなものを感じます。最初のシーンでも、投手、球審ともに言葉を発したわけではなく、お互いに態度に表れてしまったということ。言葉にしていたら投手は退場処分となっていたかもしれません。そしてその後もお互いそれぞれがコメントすることなく時間が過ぎているということです。真実はわからないままですが、わからなくて良い真実もあるのです。あいまいさも必要ではないでしょうか。
この騒動をきっかけに、判定をAIに任せようといった意見が見受けられるようになりましたが、これには疑問が残ります。プレイする選手は人間、それを判定する審判はAI。これではゲームを支配するのはAIであり、ロボットが人間を操るようになってしまうということを意味します。最も大事なところをロボットに委ねるのはいかがでしょう。それが拡がれば大事なことほどAIに任せるようになり、人が判断する必要がなくなっていきます。人でないとできないような仕事も減っていくでしょう。判定がどちらか一方に有利になるようなものでない限り、人が人を裁くので良いのではないでしょうか。誤ることもあるし、感情的になることもある。それも人間らしくていい。顔に出てしまうこともまた人間らしさなのです。
子どもにも人間らしく育ってもらうために、親が表情を見せていきたいものです。気温が上がってくる季節、子どもの表情も見えやすく過ごしてもらいたいものですね。