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特集

インタビュー取材しました。

防災を語ることで、福島の未来を紡ごう
福島県 相馬市教育委員会 防災教育専門員 高橋 誠氏 インタビュー 後編

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先月で東日本大震災から10年。被災地、そして全国で追悼行事が催され、3月11日をはさんでテレビでも連日、特集番組が放映されました。そして未曾有の災害から11年目の現在。〝10年一区切り〟で震災の記憶が風化してしまうこと、また2月に東北を襲った地震の影響も気がかりです。災害から得た経験を生かすために。髙橋誠先生と防災教育、そして日本の未来について考えた特集の後編です。在りし日の相馬海浜自然の家で、子どもたちに野外炊飯の仕方を教える髙橋誠先生。この施設は、2011年の東日本大震災による津波で、跡形もなく流されてしまった。

福島県 相馬市教育委員会 防災教育専門員
高橋 誠(たかはし まこと)

福島県相馬市教育委員会学校教育課指導主事、防災教育専門員、防災士。 福島県相馬郡飯舘村生まれ。新潟大学教育学部卒業後、福島県教職員として、県内の小学校で教鞭を執る。元・相馬市立飯豊小学校校長。定年退職後より、現職。相馬市内の小・中学校の防災教育充実のため、各学校の避難訓練を視察、指導、また防災学習に関わる授業を実践するかたわら、防災教育の講演や日本赤十字社の防災教材プログラムの指導なども担当する。

東日本大震災以上かもしれない。
ベッドの中で津波の恐怖に震えた

――今年2月、大きな地震が東北を襲いました。髙橋誠先生が住む福島県相馬市では、震度6強が観測されたと聞いています。「福島県沖地震」が起こった2月13日23時7分、先生はどこにおられましたか?

髙橋 あれは土曜の夜、自宅アパートで眠っていたら、いきなり下から突き上げるような揺れを感じました。建物全体が縦へ横へと大きく揺れ、瞬く間に部屋の中の物が散乱します。揺れの大きさは、2011年の東日本大震災以上かもしれないと感じ、思わず息を飲みます。

「あっ、津波が来てしまう」。ベッドでじっと布団に包まって、揺れが収まるのを待ちながら、10年前の記憶が蘇ってきました。「我先に」と車で高台を目指す人で混乱する道路や、黒い海に飲み込まれていく街、そして命を落としてしまった人たち。「辛い経験」のひとことでは片づけられない、さまざまな記憶が押し寄せ、「これはまた大変な事態になってしまう」と、恐怖で震えました。

あのあと、どれくらい揺れていたでしょうか。気がついたら、妻が家の窓を開けていました。外を見ると、暗い津波はなく、ただ福島の冬の夜の冷たい空気が流れているだけでした。揺れが収まったあとには、以前の震災直後のような混乱と喧騒もありません。

私は東日本大震災で、当時の勤務先が跡形もなく失われる体験をしました。けれども自分の家が津波に襲われる、また家族を亡くすという哀しみには遭遇していません。それでも毎年3月11日が近づくと胸がザワザワして、地震でもないのに、たまに自分の身体が揺れていると感じます。寝ているあいだに、波に襲われる感覚が押し寄せ、うなされることもあります。今年も2月に入って、ちょうど津波の夢を見たところでした。

だから今回、就寝中に地震に襲われたことで、嫌な予感が胸を過ぎりました。揺れが収まった直後には、前回同様の惨事になってしまうのかと暗い気持ちに陥ったのです。停電などの影響はあったのですが、私は自宅周辺の安全を確認し、教員である妻が学校に出向くのと同じくして、なにかしなければならないという思いで自分の職場である市役所に向かいました。

土曜の夜中だというのに、すでに多くの職員が市役所に出てきていました。そして最初の揺れの1時間後、日が明けて2月14日の0時過ぎには、もう相馬市では避難所が開設されていました。これは本当に迅速な対応で、東日本大震災以降、市が防災や避難体制の整備に努めてきた成果です。新型コロナウイルス感染防止の観点から、避難所では保健師が検温と消毒を呼びかけ、テントを張って間隔を空けるなどの対策も取りました。

震度6強と大きく揺れましたが、幸い発生時刻が夜中で、人の動きが少なかった。人的被害はほとんどなく、相馬市では死者が出ませんでした(福島県全体では、福島市が2月25日に1名の死亡を発表した)。東日本大震災の教訓だけでなく、一昨年、福島県を襲った東日本台風の際に、避難のシミュレーションがおこなえた人が多かったことも、プラスに働いたと感じています。

ただし、東日本大震災とその後の余震で建物の土台や地盤が緩んだところに、また大きな地震が来てしまった。家屋の被害は、10年前より今回のほうが大きかったでしょう。市内の小中学校にも爪痕を残しました。

震度6強の揺れに耐えられる。
災害で生きる力が相馬にあった

――地震の1時間後に避難所開設とは、本当に迅速ですね。ちなみに今年2月の地震では、東京も震度4を観測しました。私も髙橋先生と同じく、布団の中で揺れの収束を待つしかありませんでしたが、防災士の視点では、この行動は正しい避難・待機法でしょうか?

髙橋 寝床が、物や家具が「落ちてこない」「倒れてこない」「移動してこない」場所にあれば、布団に包まって揺れが収まるのを待つのが賢明です。周りに落下物があるなら、机の下に隠れましょう。結局、揺れが大きいうちは、なにもできないため待機が鉄則です。

行動は揺れが収まってから。今回も、私は揺れのあとに安全を確認して市役所に向かい、そのまま学校の設備の点検に向かいました。地震の被害が深刻ではなかったため、翌週の月曜から子どもたちが通学できるように、校舎をチェックしようと思ったのです。

――その際に建物に破損、地震の爪痕が見つかったのですね。

髙橋 学校施設で屋根が落ちたとか、壁が剥がれたという、活動に支障をきたすようなことはなく、大きな被害としては、水道管の漏水が挙げられます。それも私が気づいたのではなく、地域の方が知らせてくれました。

水道管が漏水すると、水が濁ってしまいます。もちろん手洗いなどにも不自由するのですが、給食づくりにも影響が出ます。水漏れが修復されるまでのあいだ、相馬市は備蓄倉庫のミネラルウォーターを学校に支給したため、滞ることなく給食を提供できました。このストックも、東日本大震災以降に整備された仕組みです。

また学校の水道管の修理が順調に進んだのは、地域の協力があったから。相馬市において、今回の地震の建物被害は、東日本大震災より大きかったんです。各家庭とも、自身の修復を優先したい思いは山々ですが、業者には限りがあります。事情を鑑みて、自分は後回し、学校や公共施設の修繕に人の手を回してくださった方が多かった。これも東日本大震災、台風、今回の地震と試練が続くなか、地域の皆さんの絆が深まったからこそ、なせる業でした。

目に見える被害が少ない一方で、私が気になったのが、子どもたちへの影響でした。今回の地震が、生徒の心に爪痕を残していないだろうか。私が勤務する相馬市の教育委員会で話を聞いていると、やはり地震が子どもたちの情緒に影を落としていました。

前回、3月号でもお話ししましたが、ひとえに相馬市といえども、地域によって東日本大震災の被害の認識が異なります。国道6号線を挟んで西側、震災時に津波が到達しなかったエリアに位置する学校の児童が欠席していると耳にすると、今度は津波で生徒が亡くなった東側の磯部地区の生徒たちは元気だろうか、と気がかりになります。

2月13日土曜の地震後、相馬市内のいずれの学校も、15日月曜から通学できる状況でした。私も普段なら、定期的な防災教育や避難訓練で生徒たちと接することができるのですが、今回の地震を受け、2、3月の避難訓練は急遽、中止になりました。震災の教訓を受け継ぐべく、コロナ禍でも実施してきた避難訓練ですが、地震直後で児童が動揺していることを考慮しての決断です。

東日本大震災直後、2011年3月の相馬市の様子。国道6号線の東側、太平洋側の市域は、津波の被害が甚大だった

ただ今回の地震は、今まで積み重ねた防災教育が生きた場だったと考えています。東日本大震災の記憶がない小学生は、地震の怖さを体感する機会となったはず。10年前の揺れを覚えている中学生は、震災の脅威を思い出すきっかけとなったでしょう。より切実に災害を感じられた瞬間だったと思います。

こう言えるのも、2月の地震の被害で、津波も起きず、相馬では人的被害がなかったから。震度6強の揺れに見舞われても耐えられる、災害に生き残る力が、この町にはあったのです。「市を挙げて防災教育に力を入れたことも一役買っている」と誇らしく思います。

備えあれば憂いなし。過信はいけませんが、やはり日頃の防災の心がけ(意識)が大切です。今回の地震を通して、子どもたちが避難訓練の重要性を再認識してくれれば、災いを転じて福となす、です。

かたちあるものは修復が可能。
けれど命は絶対に戻ってこない

――ただ、もうすぐ東日本大震災から10年(髙橋先生への取材は3月3日に実施)。「なぜ今、このタイミングで東北を地震が襲うのか」と、恨めしく思いませんでしたか?

髙橋 東日本大震災の余震は当分つづくと言われていますから、心構えはしていました。しかし10年を空けず、ふたたび大きな揺れに襲われたことには、やはり衝撃を覚えました。

そもそも震災の影響を〝10年一区切り〟で捉えることが可能なのでしょうか。約3650日もあれば、人によって歩みが異なります。家族も自宅も失わなかった私ですら、「10年経っても、こんなに状況は厳しいのか」と、強い無力感に苛まれます。ご両親やご兄弟を亡くされた方、また生家とともに、思い出まで津波に流されてしまった方の心の痛みを思えば、その傷が10年で癒えるとはとても思えません。

くわえて、福島には原発の問題があります。10年経っても帰還困難区域のままで、故郷と引き離されてしまった方々。帰る場所を失った虚しさを埋める手段は、いまだ見つかっていないのです。

私には毎年3月11日になると、訪れる場所があります。10年前に津波で流された、相馬海浜自然の家の跡に足が向かうのです。松川浦と太平洋のあいだの砂洲にあった以前の職場は、松林が美しい県立自然公園に面していました。しかしいまは、その面影はありません。

そこに立って手を合わせ、震災で亡くなった方を思います。2011年3月11日、多くの命を救うために私にできたことがなかっただろうか。悔しくて、自然と涙がこみ上げてきます。

ただ同時に誓います、「必ず福島の未来を紡いでいく」と。命は決して戻ってきません。残された人間の心の傷も癒えることはありません。けれども将来の防災に力を注ぐことで、災害の苦しみを減らしていきたい。命こそ福島、そして東北、日本、もちろん世界の宝です。

相馬市の小学校の避難訓練の様子。学校の敷地を出て、600m先の高台に位置するお寺を目指す

建物や家財など、かたちあるものは、時が経てば修復が可能です。しかし命が失われれば、取り返しはつかない。それは絆も同じで、帰還困難区域のように一旦、地域のつながりが解けてしまうと、元の輪に戻るのは難しいのです。

だから、子どもたちは命の大切さを学ばねばなりません。そのための避難訓練です。防災教育に通信簿はありませんが、真剣に取り組んでもらう必要があります。自分の命を守るための訓練であり、大切な誰かを助ける訓練なのです。

さらには学校教育を通して、もっと命の大切さが教えられるべきです。友と学び、自分が何者であるかを知る。自己研鑽を積むなかで、周りを思いやる気持ちも育まれます。学びを通して、生きる力と命を尊ぶ心を培ってほしい。未来の地球を担うのは、子どもたちなのだから。

- 特集 - 2021年3月発刊 vol.162

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